織田信長が天下に王手をかけた第一歩は、将軍候補の足利義昭を擁立、上洛した事です。信長が上洛を目指したのは、永禄11年(1568年)9月7日で立ち塞がる強敵を倒し、義昭に将軍宣下を受けさせたのは同年10月22日で僅かに1カ月半の電撃戦でした。
まさに怒涛の上洛戦ですが、この45日の間に何があったのか?はあまり知られていません。そこで今回は信長の運命を決めた怒涛の上洛戦の詳細を解説します。
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永禄11年7月25日義昭立正寺で歓待を受ける
足利義昭は永禄の政変で京都を三好三人衆に追い出されてより、朝倉、武田、上杉、六角のような有力な大名に上洛を頼みましたが、なかなか上手くいきませんでした。
そんな頃、織田信長は宿敵の美濃斎藤氏をようやく滅ぼして国力が充実してきていて、足利義昭は「この上は織田上総介信長をひたすら頼りにしたい」という書状を出し、ラブコールを送っています。
信長もこれはチャンスだと考え、和田惟政、不破光治、村井貞勝、島田秀満を越前に派遣、永禄11年7月25日に美濃西庄、立正寺に迎えます。義昭の宿所の一室には、贈物として銅銭千貫文、太刀、鎧、武具、馬、その他、様々な贈物をして義昭の従者に至るまで歓待していて、信長の本気度が窺えます。
永禄11年8月7日六角氏を懐柔するも失敗
信長が上洛する上では、琵琶湖に沿いながら近江を通過する必要があり、近江守護の六角氏を懐柔する必要がありました。
そこで、8月7日、信長は近江佐和山に、義昭の使者と合わせて自らも使者を送り、六角義賢に対し足利義昭上洛の際には人質を差し出し相応の奉仕をする事、首尾よく上洛が成功したら義賢を所司代に任命するなど7日間に渡り交渉しますが、義賢は全て拒否します。この為、信長は武力で近江を突破する事を余儀なくされました。
永禄11年9月7日信長出発
永禄11年9月7日、信長は足利義昭に別れの挨拶をし「近江を落としたら、きっとお迎えを差し上げます」と言い残して、尾張、美濃、伊勢、三河の4ヶ国連合軍を率いて上洛を開始します。初日は平尾村に陣を敷き、翌8日には近江の高宮に着陣。ここで2日間逗留して人馬に休息を与えました。
9月11日、織田軍は愛智川付近に野営し、信長は馬で周囲を駆けまわって周囲を視察し、数カ所の敵城には手を出さず、六角義賢父子3名が立て籠もる観音寺山、及び箕作山に攻め上る事にします。
9月12日、織田信長は佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀、浅井政澄に命じて箕作山を攻め、午後四時から攻撃して夜に入る頃には陥落させました。
信長は直ちに箕作山に入り、明日は観音寺山を攻撃すると決めますが、六角父子は夜の内に城を逃げ出し残党は降伏していたので、人質を取り監視させました。
足利義昭立正寺を出発
近江最大の難関だった六角氏を破った信長は、9月14日に不破光治を美濃西庄、立正寺に派遣し、義昭の動座を求めます。義昭はようやく動きだし、9月21日には柏原の成菩提院に泊まり9月22日に桑実寺に到着しました。
9月24日、信長は守山まで進出し26日には琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に陣を敷きます。織田軍は、大津の馬場と松本に陣を敷きました。9月27日、足利義昭が琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に到着します。
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