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この記事の目次
勝竜寺城の岩成友通を総攻撃
9月28日、信長は東福寺に陣を移し、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚の4人に勝竜寺城に立て籠もる三好三人衆の1人、岩成友通を攻撃する事を命じます。
4将は桂川を越えて勝竜寺城を攻撃、岩成友通も負けじと足軽を出して反撃しますが、織田方の4将は連携して戦い、敵兵の首を50余りを獲って、東福寺の信長に送りました。同日、足利義昭は清水寺に入っています。
29日には信長が勝竜寺方面へ出陣し、寺戸の寂照院に陣を敷き督戦したので岩成友通はついに降伏しました。
9月30日には、織田軍は山崎に到着、先陣は天神の馬場に陣を敷きます。この動きに、芥川城の細川昭元と三好長逸は、夜になって芥川城を退去、篠原長房も居城の越水・滝山城を退去しました。
芥川城が落ちた後に、信長が先導して足利義昭は芥川城に入ります。ちなみに芥川城は、最初の天下人三好長慶が居城にした城であり、その陥落は三好一族の没落を印象付ける事件でした。
池田城を陥落させ畿内を制圧
10月2日、池田の池田勝正が信長に従わないので、信長は攻撃を仕掛けます。戦いは激戦になり、敵味方双方に多くの死傷者が出ますが、数と物量に勝る織田家に形勢は傾き、信長は城と城下町を焼き払わせます。こうして、池田勝正も降伏し人質を差し出しました。信長は、これを以て畿内の制圧に成功し、芥川城に引き上げます。
織田信長京都に入る
こうして、名実ともに畿内の天下人になった信長に諸国は敏感に反応しました。松永久秀は信長に名物茶器、「九十九髪」を献上、茶人の今井宗久も茶壷の「松島」及び武野紹鷗旧蔵の茶入れ「茄子」を献上します。
信長は、芥川城に14日間滞在しましたが、新しい支配者に取り入ろうと来訪者が引きも切らず門前はごった返したそうです。10月14日、足利義昭は芥川から京都の六条、本国寺に入りここを仮御所としました。
数年ぶりに足利将軍が京都に戻った事になり、これで少しは戦乱も収まるかと京都の人々は安堵したと信長公記には出ています。信長は軍勢を引き連れて清水寺に入りますが、兵士の乱暴狼藉を禁止したので治安は維持されました。まだ、畿内には信長に反旗を翻す勢力が幾つかありましたが、勢力が盤石である様子を見て、諦めて退去、名実ともに畿内は信長の支配下に入ります。
足利義昭征夷大将軍になる
信長は、京都の細川昭元の屋敷を接収し、足利義昭の御所とします。そして、10月22日、足利義昭は衣冠束帯で内裏に参内し正親町天皇より将軍宣下を受けて正式に室町幕府の15代将軍となりました。7月25日に美濃の立正寺に入ってから100日足らず、それまでの5年間の苦闘が嘘のような電撃的な将軍就任であり、義昭は上機嫌で信長に自ら酌をし剣を与えています。
戦国時代ライターkawausoの独り言
こうして電撃戦で京都を手に入れた織田信長は、危ない事は何度もありましたが、本能寺で横死するまでの14年間の長期に渡り、京都を死守しました。常に将軍や天皇を握っている事は、信長の天下獲りに計り知れないメリットを与えたのです。
参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫
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