【日本史激変】織田信長 45日間の上洛大作戦を解説

2020年7月16日


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織田信長 45日間の上洛大作戦(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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勝竜寺城の岩成友通を総攻撃

軍議(日本史)モブa

 

9月28日、信長は東福寺(とうふくじ)に陣を移し、柴田勝家、蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4人に勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)に立て籠もる三好三人衆の1人、岩成友通(いわなりともみち)を攻撃する事を命じます。

 

三好三人衆の岩成友通

 

4将は桂川を越えて勝竜寺城を攻撃、岩成友通も負けじと足軽を出して反撃しますが、織田方の4将は連携して戦い、敵兵の首を50余りを獲って、東福寺の信長に送りました。同日、足利義昭は清水寺(きよみずでら)に入っています。

 

29日には信長が勝竜寺方面へ出陣し、寺戸の寂照院(じゃくしょういん)に陣を敷き督戦したので岩成友通はついに降伏しました。

 

9月30日には、織田軍は山崎に到着、先陣は天神の馬場に陣を敷きます。この動きに、芥川城(あくたがわじょう)細川昭元(ほそかわあきもと)三好長逸(みよしながやす)は、夜になって芥川城を退去、篠原長房(しのはらながふさ)も居城の越水・滝山城を退去しました。

三好三人衆の三好長逸

 

芥川城が落ちた後に、信長が先導して足利義昭は芥川城に入ります。ちなみに芥川城は、最初の天下人三好長慶(みよしながよし)が居城にした城であり、その陥落は三好一族の没落を印象付ける事件でした。

 



池田城を陥落させ畿内を制圧

炎上する城a(モブ)

 

10月2日、池田の池田勝正(いけだかつまさ)が信長に従わないので、信長は攻撃を仕掛けます。戦いは激戦になり、敵味方双方に多くの死傷者が出ますが、数と物量に勝る織田家に形勢は傾き、信長は城と城下町を焼き払わせます。こうして、池田勝正も降伏し人質を差し出しました。信長は、これを以て畿内(きない)の制圧に成功し、芥川城に引き上げます。

 

織田信長京都に入る

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

こうして、名実ともに畿内の天下人になった信長に諸国は敏感に反応しました。松永久秀は信長に名物茶器、「九十九髪(つくもがみ)」を献上、茶人の今井宗久(いまいそうきゅう)も茶壷の「松島」及び武野紹鷗(たけのじょうおう)旧蔵の茶入れ「茄子」を献上します。

 

信長は、芥川城に14日間滞在しましたが、新しい支配者に取り入ろうと来訪者が引きも切らず門前はごった返したそうです。10月14日、足利義昭は芥川から京都の六条、本国寺に入りここを仮御所としました。

麒麟を求める農民たち

 

数年ぶりに足利将軍が京都に戻った事になり、これで少しは戦乱も収まるかと京都の人々は安堵したと信長公記には出ています。信長は軍勢を引き連れて清水寺に入りますが、兵士の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を禁止したので治安は維持されました。まだ、畿内には信長に反旗を翻す勢力が幾つかありましたが、勢力が盤石である様子を見て、諦めて退去、名実ともに畿内は信長の支配下に入ります。

 

足利義昭征夷大将軍になる

京都御所

 

信長は、京都の細川昭元の屋敷を接収し、足利義昭の御所とします。そして、10月22日、足利義昭は衣冠束帯で内裏に参内し正親町天皇より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受けて正式に室町幕府の15代将軍となりました。7月25日に美濃の立正寺に入ってから100日足らず、それまでの5年間の苦闘が嘘のような電撃的な将軍就任であり、義昭は上機嫌で信長に自ら酌をし剣を与えています。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こうして電撃戦で京都を手に入れた織田信長は、危ない事は何度もありましたが、本能寺で横死するまでの14年間の長期に渡り、京都を死守しました。常に将軍や天皇を握っている事は、信長の天下獲りに計り知れないメリットを与えたのです。

 

参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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