【日本史激変】織田信長 45日間の上洛大作戦を解説

2020年7月16日


 

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馬に乗って戦う若き織田信長

 

織田信長(おだのぶなが)が天下に王手をかけた第一歩は、将軍候補の足利義昭(あしかがよしあき)擁立(ようりつ)、上洛した事です。信長が上洛を目指したのは、永禄11年(1568年)9月7日で立ち塞がる強敵を倒し、義昭に将軍宣下を受けさせたのは同年10月22日で僅かに1カ月半の電撃戦でした。

 

まさに怒涛(どとう)の上洛戦ですが、この45日の間に何があったのか?はあまり知られていません。そこで今回は信長の運命を決めた怒涛の上洛戦の詳細(しょうさい)を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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永禄11年7月25日義昭立正寺で歓待を受ける

逃げ回る足利義昭

 

足利義昭は永禄(えいろく)の政変で京都を三好三人衆に追い出されてより、朝倉、武田、上杉、六角のような有力な大名に上洛を頼みましたが、なかなか上手くいきませんでした。

 

そんな頃、織田信長は宿敵の美濃斎藤氏(みのさいとうし)をようやく滅ぼして国力が充実してきていて、足利義昭は「この上は織田上総介信長(おだかずさのすけのぶなが)をひたすら頼りにしたい」という書状を出し、ラブコールを送っています。

 

信長もこれはチャンスだと考え、和田惟政(わだこれまさ)不破光治(ふわみつはる)村井貞勝(むらいさだかつ)島田秀満(しまだひでみつ)を越前に派遣、永禄11年7月25日に美濃西庄、立正寺(りゅうしょうじ)に迎えます。義昭の宿所の一室には、贈物として銅銭千貫文、太刀、鎧、武具、馬、その他、様々な贈物をして義昭の従者に至るまで歓待していて、信長の本気度が(うかが)えます。

 



永禄11年8月7日六角氏を懐柔するも失敗

安土城 織田信長が作らせた城

 

信長が上洛する上では、琵琶湖(びわこ)に沿いながら近江を通過する必要があり、近江守護の六角氏を懐柔する必要がありました。

 

そこで、8月7日、信長は近江佐和山(おうみさわやま)に、義昭の使者と合わせて自らも使者を送り、六角義賢(ろっかくよしかた)に対し足利義昭上洛の際には人質を差し出し相応の奉仕をする事、首尾よく上洛が成功したら義賢を所司代(しょしだい)に任命するなど7日間に渡り交渉しますが、義賢は全て拒否します。この為、信長は武力で近江を突破する事を余儀なくされました。

 

織田信長スペシャル

 

永禄11年9月7日信長出発

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

永禄11年9月7日、信長は足利義昭に別れの挨拶をし「近江を落としたら、きっとお迎えを差し上げます」と言い残して、尾張、美濃、伊勢、三河の4ヶ国連合軍を率いて上洛を開始します。初日は平尾村に陣を敷き、翌8日には近江の高宮に着陣。ここで2日間逗留(とうりゅう)して人馬に休息を与えました。

 

9月11日、織田軍は愛智川(えちがわ)付近に野営し、信長は馬で周囲を駆けまわって周囲を視察し、数カ所の敵城には手を出さず、六角義賢父子3名が立て籠もる観音寺山(かんのんじやま)、及び箕作山に攻め上る事にします。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

9月12日、織田信長は佐久間信盛(さくまのぶもり)木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)丹羽長秀(にわながひで)浅井政澄(あざいまさずみ)に命じて箕作山(みづくりやま)を攻め、午後四時から攻撃して夜に入る頃には陥落させました。

 

信長は直ちに箕作山に入り、明日は観音寺山を攻撃すると決めますが、六角父子は夜の内に城を逃げ出し残党は降伏していたので、人質を取り監視させました。

 

足利義昭立正寺を出発

参勤交代

 

近江最大の難関だった六角氏を破った信長は、9月14日に不破光治を美濃西庄、立正寺に派遣し、義昭の動座を求めます。義昭はようやく動きだし、9月21日には柏原の成菩提院に泊まり9月22日に桑実寺に到着しました。

 

鉄甲船

 

9月24日、信長は守山まで進出し26日には琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に陣を敷きます。織田軍は、大津の馬場と松本に陣を敷きました。9月27日、足利義昭が琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に到着します。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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