kawausoは以前、武士はなぜ清潔を好んでいたのか?という動画をアップしました。
すると、予想に反し、「武士は清潔ではない、あれは明治時代以後の作り話だ」という反論を多く頂きました。
前回、アップした動画はPHP新書「本当の武士道とは何か?」を参考に書いたものでkawausoの思い付きではありません。しかし反論があったので、もう一度、武士は本当にキレイ好きだったのかを調べてみました。
この記事の目次
武士の身だしなみについて書いた六波羅殿御家訓
最初に武士がキレイ好きだったというのは明治時代以後の創作という反論について調べてみました。すると、鎌倉時代の武士、北条重時が一族に残した六波羅殿御家訓という史料が出てきたのです。
その中には、「人前に出る時」と題して以下のような事が記されていました。
①人前に出る時は、よくよく鏡を見て着物を引き繕い、衣紋の襟をかきあわせ何度も手間をかけておめかしせよ。
②いよいよ出かける時は、いささか化粧もして座席についても行儀よくし襟をはだけてゆったりくつろいではならない。
③家族の前ではどのようにだらしなくてもいいが外出したら決してそうしてはならない。
北条重時は北条一門に連なる上級武士ですので、武士全般そうだったとは断言できませんが少なくとも鎌倉時代から武士は身だしなみに気を付けていた人がいるとは言えると思います。
早雲寺殿廿一箇条にも書かれた身だしなみ
また、室町幕府の高級官僚伊勢氏の出身である北条早雲こと、伊勢宗瑞が書いたと伝わる家訓、早雲寺殿廿一箇条には、以下のようにあります。
第七条:出勤の時はもちろん、外出の予定がない場合でも身だしなみを整えておきなさい。
見苦しい姿で人に会うのは不作法で、自分が油断すれば家来も倣い、来客にあわてるのはみっともない。
時代を隔てて別々の人物が似たような事を書いているという事は、武士の世界で身だしなみが大事であった事の証拠と言えるでしょう。
蒙古襲来の負傷者に温泉療養を勧めた大友頼泰
清潔の代名詞と言えばお風呂ですが、日本で庶民までもが気軽に入浴を楽しめるようになったのは江戸時代です。しかし、温泉については、蓄積した疲れを取り、病を癒す効果がある事は経験からよく知られていました。
1274年と1281年、鎌倉時代の日本は蒙古襲来を受けるという国難に遭遇しますが、合戦で負傷した将兵の傷を癒す為に、大友頼泰という御家人が九州の別府温泉をはじめ、鉄輪温泉、浜脇温泉などに療養所を作ったという記録が残されています。
こちらもメインは負傷治療ですが、傷の治療には清潔である事が大事という考えが見てとれますね。
お風呂で暗殺される人が多い
風呂と言えば清潔の代名詞ですが、日本史では風呂で暗殺される人物が結構います。
例えば、鎌倉幕府の2代将軍の源頼家は、元久元年(1204年)修善寺で療養している頃に北条氏の刺客に風呂で暗殺されていますし、源頼朝の父の義朝も永暦元年(1160年)平治の乱に敗れて長田忠致を頼って落ち延び、風呂で疲れを癒している所を、すでに平氏に寝返っていた忠致に襲われ落命しています。
そして、室町時代の武将、太田道灌も文明18年(1486年)主君の上杉定正の手で入浴中に暗殺されました。風呂場では、丸腰になるので襲われやすいのはもちろんですが、狙いがつけやすい程度に武士が定期的に入浴していていた証拠とも言えます。
ただ、当時の風呂は、今のような湯舟に浸かるタイプではなくサウナのような蒸し風呂で蒸気で垢を浮かせて木べらで擦り取り、最期にお湯をかぶって洗い流すタイプでした。なので、風呂場で襲われたと言っても湯帷子や下帯くらいはしていて、フルちんという事はなさそうです。
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