前田利益は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将です。
往年のジャンプファンには、利益という名前より前田慶次と言う方が分かりやすいでしょう。今回は、天下一の傾奇者、前田慶次の本当の生涯について、できるだけ脚色抜きで解説します。
この記事の目次
滝川一族に生まれ前田利久の養子になる
前田利益は天文3年(1533年)から天文10年(1541年)の間に、織田信長の重臣滝川一益の一族に生まれます。父親に比定される人物は滝川一益の従兄弟、或いは甥である滝川益氏、滝川益重、一益の兄である高安範勝、または利益が一益の弟という説まであります。
その後、尾張荒子城主で子供がない前田利久が、妻の実家である滝川氏から弟の安勝の婿として利益を引き取り養子にしたとも、利益の実母が利久に再度嫁いで養子に入ったとも言われます。
このような経緯から、本来なら利益が前田家の家督を継ぐはずでしたが、永禄10年(1567年)織田信長が、病弱で武人としての務めを果たせないとして利久を隠居させ、弟の前田利家が尾張荒子4千石を継ぎました。
その為、利益は利久と荒子城を出て、退去したそうです。
伯父の利家の配下として各地を転戦
しかし、前田利家は信長の下で武功を立て続け、天正9年(1581年)頃に能登一国を領有する大名になります。そこで利久と利益は利家を頼って仕え、利久には2千石、利益には5千石が与えられました。
天正10年6月2日、本能寺の変が勃発、この時、利益は滝川勢の先手となったと記録されます。天正12年の小牧・長久手の戦いでは佐々成政に攻められた末森城の救援に向かい、翌年の5月には佐々側から寝返った菊池武勝が城主を務める阿尾城に入城し、城の奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦します。
この頃の利益の身分は城主、ないし城代という高いものですが、実際に城に留まったのは5月から7月までの3カ月ほどだそうです。その後、天正15年(1587年)8月14日、義父の利久が没したことで、家督は嫡男の前田正虎が利家に仕え、利益は利久の封地2千石を与えられます。天正19年(1590年)には、利家が小田原征伐で北陸道の総大将を命じられたので配下として従軍しました。
前田家を出奔!
ところが、前田利益は、天正19年以降に前田家を出奔します。理由は叔父の前田利家との不仲とも、利家の嫡男の前田利長との不仲とも、義父の利久がなくなり前田家との縁が切れた為とも言われますが具体的な理由は不明です。
しかし、出奔したのは利益だけで、嫡男の正虎以下妻子一同はついていきませんでした。利益は妻子と縁を切っており、つまり、利益の出奔理由は個人的なもののようです。
その後の利益は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴、昌叱父子や九条稙道、古田織部など多数の文人と交際しています。
ただ、利益は天正10年にはすでに、京都で連歌会に参加しており、出奔前から京都で文化活動をしていたようです。また利益主催の連歌会に、千利休の高弟である細川藤孝も参加している事が記録されるなど、文人としてもかなりハイクラスでした。
上杉景勝に仕官、長谷堂城の撤退戦で活躍
利益は、その後、慶長3年から慶長5年の関ケ原の合戦までに上杉景勝に仕官し新規召し抱えの集団である組外衆筆頭として1000石を受けます。その背景には、景勝の懐刀だった直江兼続との交流があったようです。
関ケ原の戦いでは、利益は上杉勢として西軍に与し慶長出羽合戦と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加しました。
しかし、18000の大軍で長谷堂城を包囲した直江兼続ですが、城を僅か1000名で守る最上方の志村光安が奮戦して攻略にてこずり、2週間が経過、その間に関ケ原では西軍の敗北が決定します。
それを知った直江兼続は、責任を取り自害しようとしますが前田利益が止めたそうです。かくして、攻守が逆転した上杉軍は、最上・伊達連合軍に追いまくられ全滅の窮地に立ちますが、水原親憲と前田利益が殿を引き受けて奮戦。
上杉勢は、最上・伊達連合軍の追撃を振り切り米沢に帰還できました。本当の武人は殿を務めるのを最大の名誉とすると言いますが、水原親憲も前田利益も、噂に違わぬ反骨の武辺者でした。
その後の利益は、西軍に属した景勝が30万石に減封されて米沢に移るとこれに従い直江兼続と史記に注釈を入れたり、和歌や連歌を読むなど自適な生活を送ったそうです。
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