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この記事の目次
利益の晩年
前田利益の晩年については、記載がまちまちで、最も具体的なのは配下の野崎知道の遺書です。それによると、上杉と心を共にして種々の業を尽くしたものの痞の病を発症したので大和国に引っ越します。
ところが上京して惑犯に及ぶ事度々で、遂には前田利長の命によって大和国刈布に蟄居させられました。
その後は仏門に入り、自らを「龍砕軒不便斎」と呼び、慶長10年(1605年)に11月9日にその地で生涯を終えました。
一方で、加賀藩の記録には、上杉の領地である会津で亡くなったとされていたり、米沢で病死したともあり、「米沢古誌類纂」では米沢近郊の堂森に隠棲し、慶長17年(1612年)6月4日堂森の肝煎太郎兵衛宅で亡くなったとします。
前田利益の性格と体格
前田利益の性格について、家臣の野崎知道は、心たくましき猛将なりと評していて、前田家を出奔した理由も、1つ望みがあっての事だったそうです。その望みが具体的に何かは書かれていませんが、徒労に終わるだけで結局叶う事は無かったと書かれています。
利益本人の筆による旅行記、前田慶次郎道中記を読むと、利益は非常な教養人ですが、石田三成の祟りに怯える人々を小馬鹿にしたり、不細工なのに自分を美人と自称する己惚れた遊女の顔を、あらん限りの悪口で罵倒して書くなど反骨心の強い人柄が窺えます。
一方では、出鱈目な祈祷師の呪文でも、信心があり霊験あればよしと咎めなかったり、従者にしてきた、朝鮮人の父子の父親が重病になり、途中に預けてきた時には別れに際し号泣する父子にもらい泣きして白楽天の漢詩を書きつけたりしています。
このように利益は、反骨心旺盛で世間を小馬鹿にする傾いた人でしたが、同時に涙もろく情愛のある部分も持つ人でした。花の慶次等では、大男とされる利益ですが、現存する鎧は、普通のサイズで取り分け大柄な人でもないようです。
前田利益 年表
・天文3年(1533年)から天文11年(1541年):滝川一益の一族に生まれ、尾張荒子城主前田利久の養子になる。
・永禄10年(1567年):織田信長の命令で義父の前田利久は隠居を命じられ、伯父の前田利家が家督を継ぐ
・天正9年(1581年):前田利家が能登の大名になったので、義父の利久と仕官し5千石が与えられる。
・天正12年(1584年):佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう
・天正15年(1587年):義父、前田利久死去、家督を前田正虎に譲り、利益は義父の2千石を継ぐ
・天正19年(1590年):小田原攻めに従軍。この年以降、出奔し京都に住み、里村紹巴、昌叱父子や九条植道、古田織部等文人と交流
・慶長3年(1598年)から慶長5年(1600年):直江兼続との縁で上杉景勝に仕官し、浪人組外衆筆頭として1000石受ける
・慶長5年:慶長出羽合戦に従軍し、長谷堂城の戦いに参加、負け戦となり上杉軍の殿を務めて奮戦し上杉軍を米沢まで退却させる。
・慶長10年(1605年)から慶長17年(1612年):大和国刈布、あるいは会津、米沢で死去、73歳。
戦国時代ライターkawausoの独り言
長谷堂城の戦いと言う盟友、直江兼続の大負け戦で兼続の切腹を止めた上に、激しく追撃する伊達と最上の連合軍を一番戦死率が高い殿を引き受けて撃退する。
負け戦で目立ってしまういくさ人の美学、前田利益は戦国屈指の男ぶりを持つ傾奇者と言えるかも知れません。一方で文人としても一流であった利益、出世する気ならもっと出世できた感じですが、やはり、そこは傾奇者の風流人、出世に汲々とせずに好きな和歌と連歌それに、気の合う友との生活を優先したのでしょうかね。
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