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前田利益(前田慶次)とはどんな人?大負け戦で名をあげた天下一の傾奇者


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前田利益とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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利益の晩年

同年小録(書物・書類)

 

前田利益の晩年については、記載がまちまちで、最も具体的なのは配下の野崎知道(のざきともみち)の遺書です。それによると、上杉と心を共にして種々の業を尽くしたものの(つかえ)の病を発症したので大和国に引っ越します。

 

ところが上京して惑犯(わくはん)に及ぶ事度々で、遂には前田利長の命によって大和国刈布(かりふ)に蟄居させられました。

その後は仏門に入り、自らを「龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)」と呼び、慶長10年(1605年)に11月9日にその地で生涯を終えました。

 

一方で、加賀藩の記録には、上杉の領地である会津で亡くなったとされていたり、米沢で病死したともあり、「米沢古誌類纂(よねざわこしるいさん)」では米沢近郊の堂森に隠棲し、慶長17年(1612年)6月4日堂森の肝煎(きもいり)太郎兵衛宅で亡くなったとします。

 

前田利益の性格と体格

水滸伝って何? 書類や本

 

前田利益の性格について、家臣の野崎知道は、心たくましき猛将なりと評していて、前田家を出奔した理由も、1つ望みがあっての事だったそうです。その望みが具体的に何かは書かれていませんが、徒労に終わるだけで結局叶う事は無かったと書かれています。

 

人を小馬鹿にする前田慶次(前田利益)

 

利益本人の筆による旅行記、前田慶次郎道中記を読むと、利益は非常な教養人ですが、石田三成の祟りに怯える人々を小馬鹿にしたり、不細工なのに自分を美人と自称する己惚れた遊女の顔を、あらん限りの悪口で罵倒して書くなど反骨心の強い人柄が窺えます。

 

一方では、出鱈目な祈祷師の呪文でも、信心があり霊験あればよしと咎めなかったり、従者にしてきた、朝鮮人の父子の父親が重病になり、途中に預けてきた時には別れに際し号泣する父子にもらい泣きして白楽天の漢詩を書きつけたりしています。

 

このように利益は、反骨心旺盛で世間を小馬鹿にする傾いた人でしたが、同時に涙もろく情愛のある部分も持つ人でした。花の慶次等では、大男とされる利益ですが、現存する鎧は、普通のサイズで取り分け大柄な人でもないようです。

 

前田利益 年表

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

・天文3年(1533年)から天文11年(1541年):滝川一益の一族に生まれ、尾張荒子城主前田利久の養子になる。

・永禄10年(1567年):織田信長の命令で義父の前田利久は隠居を命じられ、伯父の前田利家が家督を継ぐ

・天正9年(1581年):前田利家が能登の大名になったので、義父の利久と仕官し5千石が与えられる。

・天正12年(1584年):佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう

・天正15年(1587年):義父、前田利久死去、家督を前田正虎に譲り、利益は義父の2千石を継ぐ

・天正19年(1590年):小田原攻めに従軍。この年以降、出奔し京都に住み、里村紹巴、昌叱父子や九条植道、古田織部等文人と交流

・慶長3年(1598年)から慶長5年(1600年):直江兼続との縁で上杉景勝に仕官し、浪人組外衆筆頭として1000石受ける

・慶長5年:慶長出羽合戦に従軍し、長谷堂城の戦いに参加、負け戦となり上杉軍の殿を務めて奮戦し上杉軍を米沢まで退却させる。

・慶長10年(1605年)から慶長17年(1612年):大和国刈布、あるいは会津、米沢で死去、73歳。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

長谷堂城の戦いと言う盟友、直江兼続の大負け戦で兼続の切腹を止めた上に、激しく追撃する伊達と最上の連合軍を一番戦死率が高い殿を引き受けて撃退する。

 

負け戦で目立ってしまういくさ人の美学、前田利益は戦国屈指の男ぶりを持つ傾奇者と言えるかも知れません。一方で文人としても一流であった利益、出世する気ならもっと出世できた感じですが、やはり、そこは傾奇者の風流人、出世に汲々とせずに好きな和歌と連歌それに、気の合う友との生活を優先したのでしょうかね。

 

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麒麟がきた

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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