蜀の落日の契機になった戦いと言えば、樊城の戦いです。
関羽は、西暦219年の7月頃に北上して樊城を囲み、曹操が派遣した援軍の于禁の軍が折からの長雨で水没して降伏すると、数万の兵を吸収、さらに襄陽まで包囲し、一時は曹操が本気で鄴からの遷都を考える程でした。
でも、よくよく見てみると関羽の樊城攻め、とっても奇妙なタイミングなのです。
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この記事の目次
関羽の樊城攻めは単独行動だったのでは?
西暦219年正月、劉備は夏侯淵は与しやすしという法正の意見を容れて漢中攻略に着手し、首尾よく定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中を攻略します。
それとほぼ同じ頃、魏では、宛城で侯音が反乱を起こしており、宗子卿という人物は侯音に対して、関羽の援軍が来る前に魏公がやってくれば、あなたは殺されると発言しています。ここを見ると、侯音は関羽の援軍を宛てにして蜂起したとも考えられます。
しかし、関羽は動かず、侯音は1ヶ月ほど頑張って曹仁により殲滅させられました。この時に反乱に乗じていれば、漢中と南陽郡で同時に魏軍に攻撃を仕掛ける事になり、関羽の北上作戦は上手く行っていたかも知れません。
では、なんでそうしなかったのか?
もしかすると、劉備と関羽は連携を取らず、バラバラに魏に攻め込んだからなんじゃないでしょうか?
理由としては、背後の呂蒙が手強いと感じた関羽が、迂闊に北上できなかったというのが一番大きいかも知れませんけど、、関羽は必ずしも劉備の命令に従わないといけない存在じゃないのかも知れません。
劉備の漢中攻略戦及び関羽襄陽攻め時系列
kawausoは、以前より関羽は劉備の部下というより対等な同盟関係であり、お互いにそれぞれ漢朝復興の為に戦おうという共闘関係だったのではと考えています。
特に、劉備が荊州南郡を任せてからは、関羽は半分独立した群雄になっていたのではないかと思うのです。そう思って見てみると、劉備が漢中王になり、関羽を前将軍に任命するまでの時系列が、かなり、キツキツである事に気が付きました。
夏侯淵の死から関羽の死まで時系列
・西暦219年正月定軍山で夏侯淵黄忠に討たれる(夏侯淵伝)
・西暦219年春 劉備は黄忠に命じて定軍山で夏侯淵と益州刺史趙顒を斬る(先主伝)
・西暦219年春正月、曹仁が宛城を屠り、侯音を斬った。夏侯淵は劉備と陽平で戦い定軍山で劉備に殺された(武帝紀)
・西暦219年3月、魏王は長安より斜谷に出で、軍は要害を遮って漢中に臨み、かくて陽平に至った。劉備は険要に拠って拒守した。(武帝紀)
・西暦219年夏5月、曹操、軍を率いて長安に還った。(武帝紀)劉備は漢中を所有、劉封・孟達・李平らを遣って上庸に申耽を攻めさせた。(先主伝)
・西暦219年(5~6月推測)劉備は漢中王となり、関羽を拝して前将軍とし節鉞を仮した。この歳、関羽は軍兵を率いて樊城に曹仁を攻めた。(関羽伝)
・西暦219年秋7月、夫人の卞氏を王后とした。于禁を派遣し曹仁を助け関羽を撃たせた。(武帝紀)
・西暦219年8月、漢水が溢れて于禁の軍に灌ぎ軍が水没した。関羽が于禁を獲え曹仁を囲んだ。徐晃に救わせた。(武帝紀)
・西暦219年9月、相国鍾繇を西曹掾魏諷の謀反に連坐して罷免した(武帝紀)
・西暦219年冬10月、曹操軍が洛陽に帰還した。孫権が使者を遣わして上書するには、
関羽を討って効とせんと。魏王は洛陽より関羽に南征し、至る前に徐晃が関羽を攻めて破り、関羽は敗走して曹仁の囲みを解いた。
・西暦219年12月、潘璋の司馬の馬忠が関羽およびその子の関平と都督趙累らを章郷で獲え、かくて荊州は平定された。(呉主伝)
・西暦220年正月、曹操洛陽に至った。孫権が撃って関羽を斬りその首を伝えた。
参考:武帝紀や先主伝、夏侯淵伝、呉主伝、関羽伝
※劉備が漢中王になった月は正史に記載なく推測
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