劉備の養子・劉封(りゅうほう)はなぜ殺されねばならなかったの?

2017年7月25日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・わけを聞かせて」のコーナーです。

 

 

仁君・劉備玄徳。漢王朝の継続・復興のために生涯を捧げた人物です。諸葛亮孔明関羽張飛、趙雲など有能な家臣に恵まれました。そんな中の一人に「劉封」がいます。その剛勇は諸葛亮孔明も認めていたほどです。荊州長沙郡の人で、姓は劉ですが、劉備の親族ではありません。「三国志正史」によると世継ぎのいなかった劉備が養子に迎えたと記していますし、「三国志演義」では劉禅という世継ぎが誕生したにもかかわらず、劉備は劉封の器量に魅せられて養子に迎えたと記しています。タイミングが異なるものの、劉封が劉備の養子であったことに間違いはないようです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



コンビで活躍

 

劉封といえばコンビで活躍するイメージが強いですね。三国志演義であれば「関平」とのコンビが印象に残っています。三国志正史では「孟達」でしょうか。益州平定においてもかなりの武功をあげて活躍したようです。やはり劉備を認めさせた武勇は一級品だったということでしょう。219年には上庸の攻撃を劉備から命じられました。

 

関羽への援軍を出さなかったのか、出せなかったのか

 

劉備が漢中の夏侯淵を倒すために、東の上庸を押さえて夏侯淵の軍を引きつけておく戦略のために劉封は出陣します。しかし江陵から上庸への道筋には襄陽があり、魏の曹仁が五万の兵で守っています。攻略のためには険しい山道を踏破するしかありません。孟達は山岳戦に慣れており、十日で山道を踏破し、上庸の近郊の房陵を攻略します。上庸の申耽、申儀の兄弟は恐れて戦わずに攻略します。ここで劉備はこの兄弟を太守として引き続き起用することを決めたのです。この決断が劉封の動きを鈍らせることになります。ちなみに劉封はこの功績で副軍将軍に昇進しています。ここで北上して樊城を攻めていた関羽が、同盟国の孫権に裏切られ後背を突かれる危機に陥ります。劉封にも援軍を求める使者が来ました。劉封は孟達に相談します。

 

孟達

 

孟達は自分たちが出兵することで、申兄弟が反逆し東の漢中を攻めることを懸念していました。漢中王となった劉備が漢中を失うことは許されません。猛将の関羽が呂蒙に背後を突かれたからといって負けるとも考えていませんでした。結果、援軍を出さなかったのです。

関羽の救援要請をシカトする劉封

 

これには諸説あり、関羽の進言によって劉備の後継者から外された劉封の恨みのために援軍を出さなかったともいわれています。

 

【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記

 

自決か処刑か

 

関羽が敗北したことで申兄弟は再び魏に寝返ります。孤立した劉封と孟達は真逆の行動に出ました。孟達は魏に寝返り、劉封は山岳地帯を踏破し成都に帰還します。劉封は関羽に援軍を送らなかったことと、上庸を失ったことで罪に問われます。三国志正史では、今後の後継者争いの芽を摘むために諸葛亮孔明が劉封を除くように進言し、劉封は自決しています。

 

手紙を読んでブチ切れる劉封

 

三国志演義では、諸葛亮孔明が止めに入ったものの、一歩遅く、劉備の命令によって劉封は処刑されていました。劉備の後継者は実子である劉禅と決まっていたようで、どちらかというと、養子である劉封が邪魔になったので除いたという見方が強いですね。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂さん02b 背景あり

 

この話、どこかで聞いたことがあります。日本の豊臣秀吉の後継者を巡る争いです。甥の豊臣秀次を2代目関白に据えたものの、実子である豊臣秀頼が誕生してからは邪魔になり、切腹、晒首とした事件です。

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

後継者争いは国を二分し、滅びの道を歩みかねない危険をはらんでいました。諸葛亮孔明は冷静に国家の先行きを見越して、危険要素を排除したのかもしれませんね。関羽の樊城侵攻が上手くいっていたら話はまた少し違ったのかもしれませんが・・・。劉封が後継者となっていた蜀の姿にも興味はありますね。皆さんはどうお考えですか。

 

関連記事:三国志の劉備が愛した4人の妻を紹介

関連記事:集まれ、団子三兄弟!劉備の息子たち

 

蜀のマイナー武将列伝

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
ろひもと理穂

ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

-三国志の雑学
-,