三国志の時代は騒乱の時代であり、魏・呉・蜀とも兵士を徴発して果てしない戦いを繰り返していました。しかし、全ての兵士が勇敢に戦うわけではなく、苦しい戦闘に耐えられず、あるいは死の恐怖に耐えかねて逃亡してしまう兵士も多くいました。
しかし、そうして逃げてしまった兵士はどこに消えてしまうのでしょうか?
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故郷に戻れない兵士は街に紛れ込む
逃亡した兵士は本来なら故郷に帰りたいと願う事でしょう。家族がいればなおさらです。でも、それは叶わぬ夢で、すでに脱走の事実は故郷に伝わり官憲の手が伸びていました。
もちろん、「○○が帰ってきたら報告せよ、隠すと為にならんぞ!」と家族にも厳しく言いつけられているわけです。
では、故郷に帰れない逃亡兵はどこに行くのか?
正史三国志呂乂伝には、逃げて行った兵士が都市に流れ込んでいる実態が記述されていました。
蜀郡には、多くの逃亡兵が紛れ込んでいた
蜀漢の首都、成都がある蜀郡は、後漢の末の統計で130万人の人口を擁する大都市でした。群雄割拠の騒乱で人口は落ちたと考えられますが、それでも10万人前後はいたでしょう。ひっきりなしに人が出入りする都市なので、人口の把握が難しく、逃亡兵は蜀郡に入り込んで別人の戸籍と名前を語り潜伏していたようです。
特に、西暦234年に諸葛亮が五丈原で死去してからは、それが激しくなり逃亡兵同士でグループを組織したりしていた事が呂乂伝から読み取れます。これが蜀郡に入ってからのグループか、逃げる時に数名で固まって逃げていたのかは判別できませんが、後者ではないかなと思います。
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呂乂が指導教育した結果
この事態を受けて、呂乂が蜀郡太守になると兵士逃亡の防止策を取り、逃亡兵に対して教育指導をした事が書かれています。具体的にどんな事をしたのか?は不明ですが、効果はてきめんであり、数年の間に仲間を抜けて自分から蜀郡を出ていく兵士が、なんと1万人にも上ったそうです。
この記述を信じるならば、人口100万程度の蜀において、動員できる兵士は最大でも10万程度だったそうですから、その10%が逃亡兵として蜀郡に潜伏していた事になります。
すべての逃亡兵が改心して出たわけではないでしょうが、それでも、1万人近い兵士が復帰したのだとすれば、蜀の軍事力にとり呂乂は多大な貢献をしたと言えますね。
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