日本は東アジア社会でも特異な存在で、それ以外の地域が中華風の文官優位の中央集権制を採用したのに対し、日本だけは武官である武士政権が明治維新まで封建制を維持していました。
ところが、一時期に限定すれば、お隣の朝鮮半島にも武官の政権が存在した時期がありました。それが武臣政権です。今回のマルっと世界史は、朝鮮半島の武士政権、100年の歴史を解説します。
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差別されていた武臣
朝鮮の歴史上、文班・武班の両班制度がはじまるのは高麗王朝の時代からです。しかし、両班と言いつつ高麗では文治主義の伝統に基づき武班官僚は文班官僚の下位に置かれていました。
西暦958年から唐の制度を参考に導入された科挙(官吏登用試験)においても文官や僧侶を格付けしただけで、武人を登用する武科がなく、武官職になるには、世襲や縁故採用、僧でなければ戦争の武功によるしかありません。
武班は、TOPである上将軍・大将軍をはじめとする合議機関「重房」を拠点に活動していましたが、正式な試験で選ばれないという事から、高麗では武官蔑視の風潮が強まり、常に差別的な待遇に甘んじる事になります。すでに、11世紀初頭には、文班に対する武班の不満が金訓の乱(1014年)として噴出していました。
高麗王朝の弱体化と武班の台頭
12世紀に入ると、朝鮮半島の北方である満洲平原の主役は契丹(遼)から女真(金)へと交代していきます。高麗王朝は、勢力を伸ばすべく軍制を改革して幾度か侵入を試みたものの、いずれも女真族の激しい攻撃を受けて敗退します。
やがて、靖康の変を受けて宋が華南に後退して南宋を起こし、女真が華北で金を建国すると1128年、高麗は金に入貢し関係の改善を図るようになります。
しかし、この頃になると高麗内部でも騒乱が相次ぎ、1126年には外戚李資謙が王位を狙う李資謙の乱が勃発。1135年には、風水地理説や陰陽秘術で人々を幻惑した僧侶の妙清が朝廷の高官を籠絡して開京(開城)から(西京)平壌への遷都を画策。後に妙清が大為国を称して独自元号を立てた事で、1年間にわたり高麗を二分する妙清の乱が起きました。
それでも、反乱の鎮圧にあたったのは文班の金富軾で武官は、その配下としての働きに甘んじるしかありませんでした。
さらに、1146年から王位にあった18代高麗王毅宗が宦官と文官を重用し武官に対し露骨な差別を開始します。特に、毅宗が土木工事や仏教儀式の挙行で下級武臣(現職の武班)や軍人を酷使しておきながら、文官や宦官を優遇した事は、溜まりに溜まった武班の恨みを爆発させるに十分でした。
庚寅の乱と癸巳の乱を経て武臣政権が誕生
西暦1170年、毅宗の普賢院参詣を切っ掛けに武臣の不満が爆発。李義方や鄭仲夫ら武臣は86名以上の有名無名の文官を殺害し、毅宗と王太子を廃して毅宗の弟の明宗を擁立します。この事件を歴史的には庚寅の乱と言います。
しかし、1173年、文官である東北面兵馬使、金甫当が毅宗復位を狙い、武臣政権の打倒を目指して蜂起します。李義方や鄭仲夫は、これを文臣を殲滅する好機とみて、再度クーデターを起こし、前国王の毅宗や文臣を捕殺しました。
この事件を癸巳の乱と言い、庚寅の乱と癸巳の乱により、武臣の権力基盤は強化され、以後100年、高麗王朝では武臣の政権が続く事になります。
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