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三国志の世界で武将になるにはどうすればいいの?

2020年12月26日


 

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五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

三国志の世界の影の主役とも言える兵士たち、兵士がいないと武将たちの活躍はもちろんありません。三国無双にモブの兵士がいなければ、なんとつまらないゲームになる事でしょうか?

 

最後まで戦い抜く張悌(ちょうてい)兵士モブ

 

それはそれとして三国志の世界で、兵士ではなく武将になるには、一体どうすればいいのでしょう。今回は三国志を読んだだけでは分からない武将になる方法を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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最初から部下を率いて従軍すれば武将

曹仁と曹操

 

三国志の時代は、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)で徴兵された正規軍というのがあまり整備されていません。つまり兵力は、それぞれの武将が自分で集めて来た私兵団なのです。

 

兵士を率いる事を妄想する婁圭

 

なので兵士ではなく、武将として戦闘に参加したいなら、手柄よりもなによりも、自前で部下を集めてボスに納まり、意気揚々と入りたい陣営に加わればいいのです。群雄は兵力をいくらでも欲しいので、あなたがまとまった兵士を引き連れてくれば、兵士数に応じて、それなりに優遇してくれるでしょう。

 

張飛、劉備、関羽の桃園三兄弟

 

劉備は、西暦184年の黄巾賊討伐から従軍していますが、一兵卒で参加したわけではなく、その所属(関羽や張飛)を率いて校尉の鄒靖(すうせい)に従い、手柄を立てて安喜県尉(あんきけんい)のポストを得ます。

 

二刀流の劉備

 

これにしても、劉備が兵卒で誰かの下で戦っていれば、手に入らないポストです。劉備は部下を率いる事で、然るべき部隊長として扱われ、弱冠23歳で田舎の警察署長位のポストに就けたのです。抜け目なく上手くやった言えるでしょう。

 

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簡単ではない募兵

逃亡兵が問題だった魏軍と曹操

 

ただ、兵力を集めると言っても簡単ではありません。無尽蔵にお金があれば、それなりに部下になる人はいるかもしれませんが、やはり統率力がないと侮られて、途中で裏切られて酷い目に遭うリスクもあります。

 

曹操と夏侯惇

 

曹操は董卓軍の徐栄(じょえい)と戦い、派手に敗戦して兵力が減少したので、腹心の夏侯惇(かこうとん)を伴い、揚州まで募兵の旅をして、4000人ばかりも兵士を集めましたが、途中で反乱が起きてテントを襲われ、自ら叛徒数十人を斬り捨てて、ようやく窮地を脱しました。

 

この騒動で、集めた兵力はほとんど逃げていき、500名しか残らなかったそうです。

曹操と夏侯惇

 

いかに若いとはいえ、曹操ほどの男でも、募兵は困難でした。どうせ従軍するなら、誰だって兵卒よりは武将がいいですが、その地位はちゃんと部下を統率できる能力がないと就けない実力が試される地位なのです。

 

蜀の魏延

 

魏延は劉備に仕える前は、私兵団の傭兵隊長だったようで、その統率力の並々ならない事を見抜いた劉備が抜擢して牙門将軍(がもんしょうぐん)としています。牙門は、総大将を守る副将の役割で劉備の魏延に対する厚い信頼が窺えますね。

 

魏延特集

 

一族の長や県令・太守の場合

洛陽城

 

見ず知らずのならず者を部下とする募兵はハードルが高いですが、元々、あなたが氏族を率いる長だったり、役人として県令や太守だった場合には、その元々からいる守備兵や、氏族の子弟を、私兵として編成し直す事で武将になれるかも知れません。

 

兵士 朝まで三国志

 

もし、率いている人数が、千や万単位なら、武将どころか武将を統率する将軍に昇格する事だって夢ではないかもしれません。

 

李典

 

李典(りてん)は従父の李乾(りけん)李整(りせい)の死後に、その一族と部曲を引き継いだので、若くして潁川郡潁陰県令(えいせんぐんえいいんけんれい)になり、さらに中郎将(ちゅうろうじょう)となっています。このような立場であれば、一から信頼を醸成する必要がないので、部下を率いる苦労も少なく、すんなりと武将として参加できるでしょう。

 

于禁と李典

 

ただ、こればかりは、狙ってその立場に生まれられるものでもないので、誰でも応用できる方法ではありませんね。

 

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並外れた怪力や一芸

典韋にボコボコにされる成廉

 

兵卒として軍に参加した場合でも、桁外れの怪力をもっていれば、武将の目に留まり、昇進するチャンスを掴めるかも知れません。

 

典韋(てんい)は兵卒として、張邈(ちょうばく)の軍勢に参加しますが、誰も持ち上げられない牙門旗(大将旗)を片手で持ち上げたので、趙寵(ちょうちょう)という人物に注目され、その後、夏侯惇の軍に配属されてから幾度か手柄を立てて、司馬(別動隊の部隊長)に昇進しました。

 

傷だらけでも勇敢に戦う楽進

 

また、楽進は小柄だったので、曹操に兵になるのは無理だと判断され記録係にされますが、その後、募兵の為に故郷に派遣されると、1000名もの兵士を連れ帰り、その統率力の高さを見込まれて、軍の仮司馬(かりしば)陥陣都尉(かんじんとい)に昇進します。このような一芸があり、武将の目に留まると出世の糸口になりそうです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今も昔も人の信頼を得て、その上に立つというのは大変な事です。3人や5人のリーダーでさえ、それ相応の気苦労があるのに、生死を賭けた戦場で、千人や万人のトップになるとすれば、余程の人望がないと務まらないでしょう。

 

于禁と兵士

 

その他大勢の兵卒として、地獄の戦場を駆け回るのは、余り嬉しくありませんが、だからと言って武将となると、部下を統率しないといけないので大変です。カッコよく見える武将も、それ相応の苦労があると思うと「兵卒の方が気楽かな、使い捨てだけど」と思う元黄巾賊兵のkawwausoでした。

 

参考文献:正史三国志

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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