『新解釈・三國志』でも登場した反董卓連合軍。群雄割拠の時代に活躍する、曹操や劉備、関羽、張飛、呂布、孫堅、袁紹、袁のようなスター級の武将たちが同じ陣営に属して暴君董卓に挑むという戦いです。
史実ではこの戦い、董卓が洛陽を焼き討ちして長安に遷都し、モチベーションが低下した連合軍内部で内輪もめが起き自然崩壊したと説明されています。しかし、本当はもっと深刻でシンプルな事が原因で空中分解したようなのです。
無計画だった反董卓連合軍
反董卓連合軍は十数万の大軍を集めましたが、内実は勢いだけで集まった寄合所帯で、どうやら数さえ集めれば董卓が恐れ入ると考えていた節もあり、特に補給が疎かでした。
後世の私達から見ると、当時の群雄の軍勢は大陸を自在に移動できたイメージですが、そんな事が出来るようになったのは、群雄割拠の時代になったからであり、それ以前には、郡や県の軍隊が自身の領域を出る事はありません。
遠征は異民族討伐などに限られるので、当時の諸侯は補給などに頓着していなかったのです。当然、食料が尽きると周辺から略奪して間に合わせていました。
曹操の記録
反董卓連合軍のお寒い現状は、実際に従軍していた曹操によって記録されています。ちょっと紹介してみましょう。
飢饉と動乱が起きてから食糧は全く不足するようになった。諸軍は同時に(董卓に対し)挙兵したが、年間の食糧を調達する計画もなく、飢えれば略奪し、飽食すれば余剰を捨てるだけであったので、すぐにバラバラになって流浪し、敵もいないのに自滅するものが大勢いた。
袁紹が河北にいた時には、将兵は桑の実を主な食料にし、袁術が長江と淮水の間にいた時は蒲とニナ(貝)を採取して補給した。民衆はお互いに人肉を喰いあい、州里も人はまばらになった。
このように曹操は反董卓連合軍には、補給という概念が無かった事を暴露しています。年間の食糧消費が幾らになるかもわからず、食料が尽きたら奪い取り、腹いっぱい食ったら、食料を捨ててしまうカオスな状態が続いたのです。
ほとんど北斗の拳のジード状態ですね。Your Shock!
反董卓連合軍は飢えに耐えきれず崩壊した
十数万の軍勢が洛陽に攻め込むでもなく、幾つかの駐屯地に分散して宴会にうつつを抜かし続ければ、あっという間に周辺の都市からは食糧が消え、住民が消えるのは火を見るより明らかでしょう。
そうなれば、曹操が記したように董卓と戦うどころではなくなり、敵もいないのに飢えて自滅する軍が出てくるのは当然です。そもそも反董卓連合軍は、董卓が洛陽に籠城している限りは、最終的には自滅するしかない行き当たりばったりの存在だったのです。
董卓はどうだったのか?
一方の董卓はどうだったのでしょうか?
元々、異民族相手の戦いで遠征する事があった董卓は兵站について、多少の知識があったのか、献帝と重臣を長安に移動させつつ、自身は洛陽にいて王匡を撃破したり、徐栄を派遣して曹操や鮑信、孫堅を撃破したりしています。
洛陽と長安では直線距離でも400キロ弱ありますから、その日のうちに往復できる距離ではありません。そのため、兵站はあったのではないかと推測しますが、董卓配下の李傕や郭汜は補給関係なく、ヒャッハー略奪を繰り返しているので正直な所よく分かりません。
董卓は、自分用に郿城と呼ばれる小さな、しかし城壁だけは長安と同じ高さがある城塞を築城しその中に一族で30年分は食える食糧を貯えていたようです。公孫瓚の易京を連想させますが、少なくとも自分の一族が餓えないだけの備えはしていたという事でしょうか。
三国時代になると補給が整備される
魏呉蜀で真っ先に兵站を整備して補給を重視したのは、魏の曹操でした。自身が反董卓連合軍の無残な有様を体験し、その後も呂布との戦いで食糧不足に悩まされただけあり、屯田制を取り入れて食糧増産にも初期から気を配っています。
だからこそ、曹操は袁尚や袁煕を追って烏桓を討伐したり、荊州を降伏させたり潼関で馬超や関中軍閥と戦うなどで長期遠征が可能になったのです。
その後は、呉や蜀も政治体制を整え兵站を備えていき、そのお陰もあって北伐や合肥攻めも可能になっています。兵站は、もっとも重要なポイントなので、魏呉蜀とも優秀な人材をその任に宛てていましたから、反董卓連合軍から考えると、随分と変化しました。
三国志ライターkawausoの独り言
反董卓連合軍の崩壊の理由は、内輪もめではなく、いきあたりばったりの挙兵で兵糧が尽きてしまい、飢えに耐えられなくなった為に、銘々の本拠地に引き上げた。こうして書くと何だかガッカリですが、その後を考えると補給を重視した曹操が、最も強力な国家を建国し、天下統一へももっとも近づいたのですから、補給は大切ですね。
参考:正史三国志
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