正史三国志を書いた歴史家の陳寿は、日本の歴史にとっても、たいへん重要な役割を果たした人です。
中国の書物の魏志倭人伝とは
『魏志倭人伝』という名前を、日本人なら必ず聞いたことがあると思います。そうです、日本史のあけぼの、邪馬台国の卑弥呼について書かれている中国の書物の名前です。もうお気づきの方もいらっしゃるでしょう。
『魏志倭人伝』は、歴史書『三国志』の中の『魏書』に書かれた『倭人伝』なのです!
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卑弥呼の使者が訪れた魏
ここで、卑弥呼と曹操が文をかわした!などという劇的なロマンスがあったらよかったのですが、残念ながらそういった事実はありません。最初の卑弥呼の使者が魏に訪れたのは、238年のことでした。
魏は曹叡の代です。この時、卑弥呼は金印紫綬を授かり、さらに「親魏倭王」の名をもらいました。
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抹消された卑弥呼の存在
奈良時代に成立した日本の歴史書である『日本書紀』には、正式な歴史書であるのに、実は邪馬台国の名も、卑弥呼の名もありません。これは、うっかり忘れてしまったわけではなく、故意に抹消されたと考えられます。
『日本書記』の成立の背景には、白村江の戦いという、対外戦争の敗北があります。日本はこのとき、唐・新羅の連合軍に惨敗し、大陸の圧倒的な国力を目の当たりにしました。このままでは日本もいつか大陸に支配されるようになるという危機感を持ったのです。
国力の充実と、早急な文化水準の引き上げが必要でした。そして、現在の大和政権が、古代から続く日本で唯一の正統な王朝であることを証明しなければならなかったのです。すると邪馬台国の卑弥呼という存在は、大和政権にとって目の上のたんこぶです。大和政権以外にも女王がいて、しかも大国中国に認められているのですから。
そんなわけで、『日本書記』は、卑弥呼の存在を完全に無視して書かれています。もしも陳寿が『魏志倭人伝』を書いていなかったら。もしも散逸していたら……。邪馬台国はどこだという論争ですら、起こりえない状態だったわけです。