三国志演義では、史上希に見る暴君として悪役ぶりを発揮する菫卓(とうたく)。個人の武勇は、馬上で左右の腕を使って弓を引けるというように、豪勇無双ですが、将軍としては黄巾賊に敗北して職をクビになるなど戦争は下手であったと言われています。しかし、私が考えるにこれは飽くまでも百戦百勝する将軍が良い将軍という狭い価値観から来るものでしかありません。
董卓の数ある実績
菫卓は、20年以上も西涼という土地で羌族との国境線を、20万の大軍を率いて守り、その間100戦以上を経験。その間、羌族を完璧に抑えています。これは、単純に戦に強いだけではなく、菫卓が羌族の首領とも交流を持ち、その動きを把握していたからこそ出来た事です。黄巾賊との戦いで菫卓が敗北したのは、羌族相手とは勝手が違う宗教団体との戦争だったからでしょう。黄巾賊との戦闘でヘマをした菫卓は暫く引っ込んでいましたが、ここで羌族と組んだ韓遂が叛乱を起こし、漢の領土に侵攻してきたので、急遽、菫卓は朝廷に呼びもどされ鎮圧命令を受けます。
董卓、無傷の撤退
菫卓軍は、ここで数万の羌族に包囲され、食糧が欠乏、全滅の危機に陥りますが菫卓は少しも慌てず、魚を取る振りをして包囲を抜けだし、途中の川を堰止めて堤防を造り、自軍を撤退させてから堰を切りました。この大水で騎馬の羌族は悠々と撤退する菫卓軍を追撃できず、菫卓軍は無傷で撤退できています。ここを見ても、菫卓は勝手知ったる騎馬民族との戦いでは、非常にキレる判断を出している事が分かります。
朝廷は董卓の知略に恐れていた
朝廷は菫卓の知略を恐れて、彼が保有している軍勢を取り上げて左将軍の皇甫嵩に与え少府という役職に就けて懐柔しようとします。しかし、自分の価値が、涼州を守備する20万の軍勢を持っている事、そして羌族とのパイプを持っている事であると知っている菫卓は、この栄転を黙殺し続けました。
相手からすると嫌な将軍
こうして見ると、菫卓は、百戦百勝ではありませんが、自分の強みを知っていて、肝心な部分では必ず勝利しますし、どんな窮地に陥っても飄々と脱出してしまい致命的なダメージを受けません。負けても、負けても、次には負けた事など忘れたかのように前線に立って、軍を指揮している。敵から見ると、こんなに嫌な将軍はいないのではないでしょうか?
それは翻って味方として考えると名将軍であると言えるのです。
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