献帝を手に入れ、猛将呂布を従えた董卓は、洛陽にデンと座し、恐怖政治を始めました。諸侯たちは、単独で戦いを挑んでも、ぼろぼろに負けてしまいます。そこで、みなで手を組み、反董卓連合軍を立ち上げて、束になって戦いに挑みました。
合従策で挑め!
「合従策」とは、三国時代に先立つ戦国時代、蘇秦という人によって考えだされた戦略です。
当時の中国は、秦、楚、斉、韓、魏、趙、燕の七か国で争われていた時代で、その中で抜きんでて秦が強国でした。
そこで、諸国は勢いのある秦に攻め滅ぼされる前に、みなで協力して秦と戦うべきだと、蘇秦は唱えたのです。
董卓対袁紹率いる連合軍の図式も、合従策であることがわかります。さすがの董卓も、これにはかなわないかと思いましたが……。連合軍はなかなか苦戦します。これはなぜなのでしょうか。董卓と呂布が、強すぎるからなのでしょうか。
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実際の戦いは
董卓は、先に述べたとおり、西部軍閥です。そして、反董卓連合軍としてそろった諸侯たちはみな、東部の豪族たち。言うなれば、「西の辺境のやつなんかに負けてたまるか」といって奮起した人たちでした。
董卓の悪政をなんとしても止めようという熱意がある人たちはごく少数で、実際は、派閥争いの延長だったとも言えます。
状況が不利だと悟った董卓は、洛陽を焼き払い、長安に移りました。これは、自分の本拠地である西の地域により近い方が、守りやすいと思ったからです。廃墟となった洛陽を見て、連合軍は意気消沈し、ばらばらになってしまったといいます。
しかし、どうなのでしょうか。いくら董卓が、自分に有利な西側の都に移ったとしても、遷都したばかりでは、隙だらけのはずです。それに、洛陽と長安はそこまで遠い場所でもありません。あともう少し、しぶとく追いかけてもよかったのではないかと思います。
つまり、諸侯たちは、洛陽を見て初めて、「もうやる気なくなったー」と思ったわけではなかったのでしょう。もっと早いうちから、もしかしたら、最初から、連合軍の心はばらばらだったのではないでしょうか。
董卓はまだまだこの後、2年間も、国の中心に居続けるのです。長安に移った董卓は、20年分の食料と、金銀財宝、美女を独り占めし、ますます暴虐無道なふるまいをします。みんな……もう少し頑張ってほしかったです!