秦の始皇帝ってどんな人だったの?幼少期編


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始皇帝 キングダム

 

中国を史上初めて、1人の皇帝によって支配される国にして、後の中華王朝のモデルを造った秦の始皇帝(しこうてい)。しかし、輝かしい生涯を歩んだと思われがちな始皇帝の幼年期は、想像を絶する過酷さと恐怖に満ちていました。

 

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父は秦の忘れさられた王子、母は身分の低い踊り子

趙政

 

始皇帝は、紀元前259年、正月、趙の都、邯鄲で生まれます。正月に誕生したので、名前を政(せい)とし趙で産まれたので、趙政(ちょうせい)と呼び習わされて育ちました。秦の王子なのに、どうして趙で産まれたのか?皆さんは不思議に思う事でしょう。それは政の父である、異人(いじん)に関係があります。異人は、後に秦の孝文王(こうぶんおう)となった安国君(あんこくくん)の子供ですが、数十名もいる公子の1人であり、また、後ろ盾になる母もいない、力のない青年に過ぎませんでした。

 

三国志のモブ 反乱

 

その当時、秦を支配していた、昭襄王はそんな子楚に目をつけ趙に人質として送り込んだのです。もちろん、秦と趙の間に戦争が起これば、みせしめに異人は殺される運命になります。昭襄王は死のうが痛くも痒くも無い会った事もない孫の1人として異人を趙に送り込んだのです。


みすぼらしい異人に呂不偉が目をつける

呂不韋

趙にやってきた異人ですが、捨て駒のような異人に近づいてくる人は誰もいません、秦からの仕送りも少なく、異人は公子でありながら、毎日、食べるのが精一杯という貧しい生活を送ります。ところが、この異人に目をつけた商人がいました。それが、後に丞相として秦の政治を牛耳る呂不偉(りょふい)です。呂不偉は、異人を自分が秦で成り上がる為の駒として利用しようと考え貧乏な異人にお金を与え、趙の名士達とも交流を持たせようとします。ルックスは悪くない異人は、寂しい名前を皇太子らしい子楚(しそ)と改めて、次第に趙でも名前が知られるようになります。一方で呂不偉も大金を使って、秦で工作を行い子楚が皇太子となれるように必死の裏工作を行っていました。

 

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子楚、呂不偉の愛妾に一目惚れする

呂不韋

 

子楚は、ある日、呂不偉の愛妾の1人である趙姫(ちょうひ)に一目惚れします。そして図々しくも趙姫をワシにくれと呂不偉に打ち明けます。

 

(手駒の癖に、俺の女に手を出すのか・・)呂不偉は、一番の美女である趙姫をくれという子楚に激しく腹を立てます。が、今まで大金を使って手なずけた子楚を、妾1人の為に失っては採算が合わないと、快く譲り渡しました。こうして、ほどなく男の子が生まれます、それが秦王政だったのです。


秦と趙の間で戦争が始まり、政は母と共に命を狙われる

政 キングダム

 

政が産まれて、間もなく、昭襄王の皇太子が病死し、子楚の父である安国君が皇太子になります。自分に運が向いてきたかもしれないと思う子楚ですが、間もなく、最悪の状況がもたらされました。

 

王騎 キングダム

 

紀元前、257年に秦の昭襄王は、王騎(おうき)を先陣にして趙を攻めて、4年後の253年には邯鄲を包囲してきたのです。人質の事など少しも考えもしない、非情な昭襄王の決断でした。もちろん、趙は怒り狂い、子楚とその家族を殺そうとします。しかし、呂不偉の手引きで子楚は趙の門番を買収して間一発、国外に逃げて、秦に戻る事に成功するのです。ですが、逃げられたのは子楚だけでした。趙姫と6歳になっていた政は逃げる事も出来ず、趙人の憎悪を一身に受けて、潜伏生活を余儀なくされました。

 

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毎日、毎日、死の恐怖に怯える毎日が政に洞察力を与えた

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趙姫と政には、呂不偉の援助があったとは思います。しかし、居場所がばれれば、即座に処刑が待っているという極度の緊張感は、6歳の少年に人間の顔色や様子で自分の敵か味方かを瞬時に見分けるという洞察力を与えました。それと同時に常に相手を疑い、少しでも怪しいと思ったら、容赦なく処刑するという政の冷酷な性格もこの幼年期に生まれます。

 

潜伏生活4年、政と趙姫は生き残り秦に入る

春申君

 

秦の邯鄲の包囲は、楚の春申(しゅんしん)君、魏の信陵(しんりょう)君の援軍もあり秦の敗北に終わります。そして、紀元前250年には、政の曽祖父である昭襄王が五十年に亘る治世の末に死去し、子楚の父、安国君が即位して孝文王になります。かくして、子楚は皇太子となり、政は子楚の後継者になりました。

 

政 キングダム

 

当時の国際慣習では、皇太子の家族の人質は本国に送り返すという不文律があったので趙は嫌々ながら政と趙姫を解放して秦に帰還させます。

 

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安国君、即位3日で死去、子楚は荘襄王として即位

秦の旗を掲げる兵士

 

父、昭襄王の後を継いだ、安国君は在位、僅か3日で死去します。それによって、子楚は即位し、荘襄王(そうじょうおう)となりました。呂不偉は、長年の功績が認められ、丞相に任命されました。異人と呼ばれた貧乏な公子をバックアップした呂不偉は、とうとう、天下の強国、秦の宰相に昇りつめたのです。同時に、この間まで命を狙われる潜伏生活を送っていた政は、皇太子という地位になります、政はまだ10歳でした。

 

政の父、荘襄王死去、少年王、政が誕生する

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呂不偉と荘襄王は、即位のごたごたにつけこもうとする六国を抑え逆に、秦の勢力を伸ばしますが、荘襄王は即位、たった3年で死去します。こうして、秦王政は、13歳という年齢で秦の36代の君主になりました。本来なら、王になる見込みがない貧乏公子の子だった政は、不思議な運命のいたずらにより、弱冠13歳で弱肉強食の戦国時代に立つ事になります。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

キングダムでも、その苛酷な少年時代が描かれる秦王政、王子と言っても、傍流の父と踊り子で身分の低い母から生まれた彼は、普通ならば、とても王位を狙えるような場所にはいませんでした。すべてをよい意味で狂わせたのは、大商人呂不偉の存在です。しかし、政を王者への道へ導いた呂不偉は、政が成長するに従い彼にとり目ざわりな存在になっていきます。父を早く亡くした政にとり、呂不偉は乗り越えるべき、巨大な壁になっていくのです。

 

次回記事:秦の始皇帝ってどんな人だったの?青年期編

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—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

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