蜀の五虎将軍の一人であり、知勇兼ね備えた名将である趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)、劉備(りゅうび)の配下になったのも、張飛(ちょうひ)や関羽(かんう)に次いで位で古い、古参の武将と言っていいほどの人物です。
しかし、にも関わらず、趙雲は劉備の義兄弟ではありません。二君に仕える事なく忠義一筋に生きた趙雲が、それでは余りに浮かばれないいくら三国志演義が史実をベースに交えているとはいえ、これ位のサービスはあってもいいのではないか?
そのような質問を受けて、私kawausoが趙雲について調べましたところ実に意外な事が浮かび上がってきました。
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この記事の目次
趙雲が劉備達と義兄弟になれなかった3つの理由
① 趙雲が義兄弟になれない理由 ・・劉備より年上
趙雲は、没年は西暦229年になっていますが生年は不詳となっています。ですが、実際の趙雲の年齢は、劉備よりも上という説があるのです。
漫画やアニメでは、若武者のように描かれる趙雲ですが、公孫瓚(こうそんさん)の配下になった頃には、一部隊を率い落ち着き払った態度でいて、かなり大人びている印象を受けます。つまり、桃園三兄弟の原則に従うと、劉備より年上の趙雲は、義兄という事になって劉備を従える事になってしまうのです。ここで三国志演義の作者は、難を感じて、趙雲を義兄弟としては、スル―してしまったのかも知れません。
② 趙雲が義兄弟になれない理由・・死んだ年が劉備と離れ過ぎている
趙雲が死亡した年は、西暦229年で、劉備の死後6年を経過しています。これは、張飛の死後、9年で関羽の死後10年です。
桃園の誓いでは、同年、同月、同日に死のうという誓いを立てて劉備、関羽、張飛は、概ね、その誓い通り、2~3年の間に相次いで死亡しています。こうして考えると、仮に趙雲を義兄弟に加えてしまうと、彼がただ、一人だけ生き残る事になり、誓いに反してしまいます。そこで、演義の作者は、趙雲を義兄弟からは除外したとも考えられなくもないのです。
③ 趙雲が義兄弟になれない理由・・クール過ぎた。
趙雲は、情熱的な関羽や張飛と比較して、とてもクールな印象があります。
例えば、公孫瓚は、趙雲が自軍に加わるのを喜び、
「冀州の人士は、皆袁紹になびいたのに、ワシを選んでくれて嬉しく思う」
とねぎらいの言葉を掛けました。
すると趙雲は、
「私は仁政が行われる国で仕えたいと思うまで、
別に貴方に惹かれたとか袁紹(えんしょう)が嫌いだとか言う理由ではない」
と素っ気ない返事を返しているのです。
また、関羽が呉の呂蒙(りょもう)によって討たれた時には、張飛が劉備に同調して、直ぐにでも弔い合戦をするべきだと息巻いたのに対して趙雲は極めて冷静でした。そして、激情して呉に出陣すると怒り狂う劉備に対して、
「真に討つべきは、魏です、魏さえ討てば呉は自ら降るのです」と孔明のような冷静な意見を述べています。
趙雲の意見は正しいのですが、このクールさは、張飛や劉備とあまりにも温度差がありすぎます。以下の3点の理由により、趙雲は、劉備の義兄弟から外されたそのように推測する事が出来るのです。
趙雲は劉備から寵愛されていた
もっとも、実際の趙雲は、劉備に重んじられ、同じベッドで寝起きし、同じ食事をし、どこに行くにも一緒というような関羽、張飛にも劣らない待遇を受けています。
演義では水を空けられたとはいえ、実際の趙雲は、関羽、張飛、孔明(こうめい)にも劣らない劉備の信任厚い、重臣だったと言えるでしょう。
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