曹操(そうそう)と織田信長(おだのぶなが)は、よく似ていると話題にされることが多いですよね。合理性を重んじた政策や完全実力主義。目的達成のためなら虐殺をもいとわない冷酷な面。そしてお互い文学も好きで先見性もあります。この二人は多くの共通点があるので、二人の共通点を紹介しちゃいます。あなたはいくつ当てはまる?
人が大好き、ただし能力がある人に限る
まず曹操と信長を比較した場合一番似ている点は、まず人材を用いる点が類似点として挙げられると思います。尾張の大名織田信長は、小国で人材に乏しく困っていました。そこで信長は身分にこだわらず、一人一人に仕事を担当させ、今後役に立つと思われる人材を積極的に採用し、どんどん昇進させていく人材登用方法を行いました。
後の話になりますが、仕事のできない人材や役に立たなくなった人材、職務怠慢な人材は、重臣だろうが国持大名であろうがクビにしていきます。
おじいちゃんの印象が悪い
曹操は祖父が宦官で財力には不足しておりませんでしたが、宦官のイメージがすこぶる悪く、中々人材は集まってきませんでした。そのため、曹操は人材集めのため自ら人に会い、素行が悪くても能力があるのであれば構わない人材登用を行います。そのおかげで盗みや殺人などの前歴がありますが有能な人材が集まり、曹操の覇業を助けていくのです。
新たな政策を生み出すアイデア力
次の類似点としては、新たな時代を作り出すために次々と色々な政策を生み出していくアイデア力に優れている点です。信長は楽市楽座を行い流通面において改革を行います。楽市楽座以前は商工業者(問屋・市場)が商業を独占しておりましたが、信長の作った楽市楽座により自由に商売して良いという法律を自国内で作ることで、経済が一気に活性化します。
合戦時に農民を徴兵するため合戦時期も限られ、合戦時の農業生産力が減少してしまう問題がありました。信長は農業に勤しむ農民と専門的職業としての兵士に分離させる政策兵農分離の法律を導入することで、農業生産力を減らさず合戦時期を選ばず戦うことができるようになりました。このように次々とアイデアを出し、戦国時代の覇王としての地位を確立させていくのです。
自給自足できる
曹操もあらたな政策を次々に出しています。群雄割拠の時代は各群雄が他の領土に侵攻し略奪などをして軍の兵糧を奪っていた群雄が大多数を占めていた時代です。曹操は自国の農業生産力を向上させるため、遠征に出ない兵士を各地で農業に従事させる政策を実施します。この政策を導入してことで、潤沢な穀物を生産することに成功し群雄割拠の時代において一歩リードします。また群雄割拠の時代の覇者を目指すため曹操は自分の軍師たちを政治や戦略のプレーンとして参謀の集団を組織することで、周りの意見を聞き積極的に取り入れ、覇道へと邁進していきます。
素行がよくない
信長は幼い頃から素行が良くなく、母親や家臣達は「うつけ者」(ばか・放蕩者などの意味)と呼ばれておりました。服装もボロボロの上着を羽織って、家臣の次男などを誘いやりたい放題遊んでいました。素行の悪さを表すエピソードがあります。父信秀の葬儀の時に信長は葬儀の時間に大幅に遅刻しただけでも素行の悪さを表すエピソードとして十分のですが、信長はその後抹香を掴んで父の遺影に思いっきりぶつけて帰ります。
どうしようもない素行の悪さであるが、このエピソードには後日譚があり、信長の守役である平手政秀が信長の素行の悪さを悲しみ自害してしまうのです。信長は平手政秀が自害したことを大いに悲しみ、寺を立てて弔う少しいい後日譚でした。曹操の幼少期の名は阿瞞と呼ばれていました。「阿瞞」の意味はうそつきちゃんという意味です。ものすごい幼名でありますが、これぐらい放蕩息子として父曹嵩も養育にはかなり手こずっていたと思われます。しかし青年期になった曹操の放蕩ぶりは尋常ありません。曹操の放蕩ぶりを表すこのようなエピソードを紹介します。
花嫁泥棒
曹操は青年期袁紹と仲がよく二人で色々といたずらや悪事を働いておりました。ある日近所の娘が婚礼を挙げるということを聞きつけた曹操は袁紹を誘って花嫁泥棒を決行します。袁紹が「泥棒が入ったぞ」と大声を上げ婚礼に呼ばれた客たちを引きつけておいて、その間に曹操が花嫁を盗み出します。しかし家から脱出するときに袁紹は足に茨の刺を突き刺し、動けなくなってしまいます。このままでは追いつかれると思った曹操は「ここに花嫁泥棒がいるぞぉぉ」と大声を上げます。袁紹は痛みを忘れてかけ出しなんとか難を逃れるのです。この曹操の放蕩ぶりは尋常じゃありません。他人の嫁を盗み出すとは現在じゃ考えられないですね。二人の覇者は幼少期・青年期共に常軌を逸した放蕩者である点が共通点として挙げられます。
まとめ
あなたはいくつ当てはまりましたか?
全て当てはまればあなたも今日から覇王。さぁ、力を振りまいてみましょう!