【あるはずのない超技術】兵馬俑から発掘されたクロムメッキ剣はオーパーツなのか?現代科学でも説明困難な古代のロストテクノロジー(HMR)


兵馬俑

 

1974年、中国で秦の始皇帝の墓所である始皇帝陵(しこうていりょう)が発見された際、その陵を囲むように作られた兵馬俑坑(へいばようこう)も同時に発見されました。兵馬俑坑には、陶器製の実物大の兵士や馬の像(俑)が収められていました。その数はなんと8000体にも及びます。

 

兵馬俑 クロムメッキ

 

兵士の俑は青銅の剣を腰に帯びていました。この剣はクロムメッキが施され、発見された際、まったく錆びていなかったといいます。


近代のメッキ技術

HMR隊長 石川克世

 

クロムメッキの技術は一般には1937年にドイツで発明されたものとして知られており、2000年以上前に造られた兵馬俑からなぜクロムメッキを施された剣が出土したのか謎とされました。今回、『はじさんミステリー調査班(HMR)』では、オーパーツ(その時代にありえない技術で作られたとされる遺物)とも言われる、このクロムメッキ剣の謎に迫ってみました。


秦の時代、メッキ技術はすでに存在していた

秦の旗を掲げる兵士

 

金属にメッキを施す技術それ自体は、秦よりも更に1300年ほど前、スズを使ったメッキがメソポタミアのアッシリアで行われていたことが知られています。メッキ技術を世界に広めたのは、スキタイの騎馬民族であると考えられています。彼らは金属製の馬具に装飾を施し、それに金メッキをしていました。彼らがユーラシア大陸一帯移動することで、金メッキの技術も広まっていったわけです。


中国でメッキ技術が用いられた時代

 

中国でメッキ技術が用いられるようになったのは、春秋戦国時代の後期でした。それはスキタイの金メッキ技術の影響を受けたもので、後漢時代に中国で仏教が広まると金メッキをした仏像が作られるようになります。この頃の金メッキは、金と水銀を混ぜて粘土状にしたアマルガムというものを仏像に塗って炭火で加熱、水銀を蒸発させて金だけを残すという方法で行われていました。


奈良の大仏はもともと金ピカだった

 

日本でも、奈良の大仏に同じ方法で金メッキが施されたことが知られています。大仏はもともと、金メッキを施された黄金の仏像だったわけです。しかし、あの巨大な大仏に金メッキを施すとなると、大量の水銀が必要でした。その大量の水銀を蒸発させたのだから、周囲に影響がでないはずがありません。大仏を作っていた頃、その周囲では疫病が蔓延し、大仏が完成するとそれが治まったので、人々は大仏の功徳であると喜んだそうですが、実はその大仏こそが疫病の原因だった可能性が高いとは、なんとも皮肉な話です。

 

なぜ、兵馬俑の剣にクロムメッキが施されたのか

 

つまり、メッキ技術そのものは、秦の時代にはすでにごく普通の技術として中国でも普及していたことになります。ただ、基本的にこの頃用いられていたのは金を使ったメッキで、その用途は主に装飾品であったと考えられます。クロムという金属は近代になってから工業用途で用いられるようになりましたが、古代にはその存在自体がほとんど知られていませんでした。メッキ自体は普通に行われていたものだとしても、なぜ、当時その存在が知られていなかったはずのクロムを用いたメッキが、兵馬俑に収められた剣に施されていたのでしょうか?そのヒントは、メッキに用いられるもうひとつの金属……水銀にあると思われます。

 

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