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関羽の呪いにより急死
孫皎は関羽が治めていた荊州攻略戦ではめざましい勲功を挙げます。しかし孫皎は荊州攻略戦の翌年いきなり亡くなってしまいます。病気や怪我など一切なかった人が突然なくなったので周りの人々はびっくりしたそうです。また荊州攻略戦に参加した諸将の内、翌年に亡くなった人物は孫皎だけではなく、呂蒙(りょもう)や潘璋(はんしょう)、馬忠(ばちゅう)など多くの将が突然亡くなります。このことから呉の群臣や民衆の達の間では関羽の祟りだと囁いたそうです。
孫皎の息子達も関羽の呪いで被害に
孫皎の死後息子が跡を継ぎますが、彼も若くして亡くなってしまいます。その後弟が跡を継ぎますが、罪を犯し自殺します。
孫皎の一族はなぜかわかりませんが、最後が穏やかでなく、悲惨な結末ばかりを迎えてしまうのです。関羽の呪いが一族全てに災いをもたらしたのではと疑いたくなります。
三国志ライター黒田廉の独り言
孫皎は名将でしたが、短命な武将でした。彼は孫家の中でも優秀な武将であり、孫権も彼には大いに期待しておりました。彼が短命な武将でなければ孫呉を支える重臣として、活躍できたことでしょう。
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