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廉頗(れんぱ)とはどんな人?悲劇のレジェンド元趙三大天[キングダム ネタバレ注意]

2015年12月29日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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廉頗無念、趙軍大敗す!

 

 

しかし、秦は廉頗より一枚上手でした、秦の宰相范雎(はんしょ)は、

趙に向かって大量のスパイを放って流言しました。

 

「秦は、廉頗将軍と趙括(ちょうかつ)将軍が交替する事を恐れている、

廉頗は老いぼれだから、戦いやすいが趙括は強敵だ」

 

それを聞いた孝成王は優勢な兵力がありながら、消極的な戦いに終始している

廉頗に不満があった事もあり、長平城の将軍を趙括と交替させようとします。

 

それには、多くの群臣が反対しました、藺相如も重病の床にありましたが、

友の窮地に這うようにして趙王に反対します。

 

「廉頗は名将です、戦とは派手に勝てばいいのではありません。

今、趙は攻められる側、持久して秦を追い返せば最小の労力で勝てるのです。

趙括という机上の理論を振りまわす若造と廉頗を交替させてはなりません」

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

藺相如の言う通り、趙括は名将、趙奢の息子であり口は達者でしたが、

実戦経験はまるでない馬稷(ばしょく)のような勉強秀才でした。

 

ところが、孝成王は藺相如の意見を無視、廉頗は趙括と交替させられた上

秦の白起の計略にはまり、45万人という兵力を失う大敗を喫します。

 

傾いていく趙を支え、廉頗の奮戦は終わらない

信陵君

 

この後、趙は都、邯鄲を秦に3年包囲されるという絶体絶命を味わいますが、

ここは、平原君、魏の信陵(しんりょう)君、楚の春申(しゅんしん)君の協力で

秦軍を追い払います。

 

ところが衰えた趙に対して、燕王の喜(き)が兵を出して領地を奪おうとします。

しかし、廉頗は、ここが頑張り所とばかりに老体に鞭打ち、攻めてきた燕軍を撃破、

さらに、逃げた燕軍を追い、首都の薊(けい)を包囲しました。

 

「はっはっは!!燕王め、火事場泥棒とはいい度胸だ。

この廉頗が趙人の恐ろしさを教えてやろう!!」

 

燕王喜は、震えあがり廉頗と和睦して五城を差し出します。

この廉頗の強さには秦も怯え、攻めてこようとはしませんでした。

孝成王は、長年の廉頗の功績を受けて、尉文(いぶん)という邑を与えて信平君に任命、

そして、死去していた平原君に代わり相国代行に任命されます。

 

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孝成王死し、悼襄(とうじょう)王が即位、廉頗、罷免される

 

ですが、紀元前245年、孝成王が死去、皇太子の悼襄王が即位すると、悼襄王は昔から仲が悪かった廉頗をクビにします。

 

それを怒った廉頗は後任の楽乗(がくじょう)を攻撃して撃破し、趙に居られなくなり、魏に亡命、破られた楽乗も亡命してしまいます。

廉頗は魏で重んじられますが、大軍を任される事はありませんでした。

 

秦王政の即位で圧迫された趙は廉頗を呼び戻すが・・

 

その頃、秦では、秦王政が即位して趙をターゲットにしていました。

圧迫された趙王は、廉頗を趙に呼び戻そうと使者を派遣します。

 

廉頗も魏では活躍の場もなく、趙に戻りたいと考えた時でしたので、

喜び、使者の前で10升の飯を喰い、10斤の肉を食べてみせ、

さらに重装備を纏って馬に跨り、年を取っても、まだ頑張れると猛烈にPRをして見せました。

 

しかし、廉頗と仲が悪かった、佞臣の郭開(かくかい)が謀略で

使者を買収し、悼襄王に嘘を言うように言いくるめます。

 

使者は「廉頗将軍は、老齢で私と会見している間、三度も失禁しました」と

返答し、趙王は「既に廉頗はおいぼれた」と呼びもどすのを諦めます。

 

廉頗、失意の中で楚で死没する

 

廉頗は更に、楚に亡命し、そこでも将軍に任命されますが、

手柄を立てる機会はなく寿春で病没しました。

晩年、廉頗は望郷の念に駆られ、「兵を率いるなら趙人を率いて戦いたい」と口癖のように言っていたようです。

廉頗にとっては、数多の名将と腕を競った趙にいた時代が一番輝いていたという事なのかも知れません。

 

春秋戦国ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

史実では、魏から楚に亡命して最後を迎えた廉頗ですが、その没年は明らかではありません。

ですので、キングダムでは未だ、存命であり無敵の将軍として、描かれ大活躍している途中です。

歴史上の悲劇の将軍の境遇を漫画では跳ね返せるのか、今後の登場が非常に楽しみです。

本日も、悠久の春秋戦国時代の浪漫に乾杯!!

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

 

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