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腸チフスは戦争と切っても切れなかった
腸チフスは、チフス菌というサルモネラ菌の仲間が起します。感染は経口感染で、チフス菌の保菌者の便や衣類、保菌者と接触する事で感染するほか、それらの菌が付着したモノに集った蠅が食物に触れ、それを人が食べる事でも感染します。主に上下水道や衛生観念が浸透していない地域で発生するほかに、戦争など、大勢の人間が動いて衛生状態が悪化し、新鮮な水が不足する場合などに大発生します。建安年間には、魏の出兵が頻繁(魏だけに限らないですが)だったのでどうしても、腸チフスが流行する事になったのでしょう。
腸チフスを科学的に分析してみた曹植(そうしょく)
西暦217年の腸チフスの大流行は伝染病に対する様々なアプローチを起す事になりました。曹操の息子として、その合理的な側面と詩的な才能を受け継いだ曹植(そうしょく)は、説疫氣(せつ・えきき)という詩をあらわしました。説疫氣とは、「伝染病を説明する」という意味で曹植なりに迷信では無く科学的に伝染病を説明しようとしています。
当時、腸チフスに対して、民衆は怯え、これを鬼神の手段と考え、門にお札を貼るなりして必死の祈願をしました。それに対して、曹植は冷静かつ冷ややかな目線を向けています。「建安22年、疫病が猛威を奮った。どの家でも亡くなる者が出て家族は悲しみにむせび泣いた。或る一家は死に絶え、或る一家は尽き果てて、人はこの疫病が鬼神の仕業であると考えている。
しかし、この疫病に罹ったものは、粗末な毛布を纏い豆を食べている子供や、貧しい男女ばかりである。充分に食べて、貂の毛皮を何枚も重ねて眠るような富裕層では、殆ど病気に罹るものはいなかったのだ。要するに陰陽が正しい位置を狂わせて寒波や暑さが時期を誤った為に疫病が起きたのであって、浅はかな人々がお札を、あちこちに貼り付けて、疫病を抑えようとしているのは、まったくオカシな話だ」
ドライで合理的な曹植の見解
流石に、病原菌というものの存在が分からなかった当時ですから、陰陽の位置という儒教的な考えを持ち出す所に時代の限界がありますが、伝染病が鬼神の仕業という迷信を撃ち破り、科学的なアプローチを試みた点に曹植の合理主義者の一面が窺えます。しかし、当時の貧しい人が、この詩を読んだらきっと反感を持つでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
伝染病の歴史は三国志演義や通常の戦史には出てきません。しかし、その破壊力たるや、一国の経済をガタガタにしてしまう程です。曹操を撃退したのは、孔明(こうめい)でも周瑜(しゅうゆ)でもなく腸チフスだったというのは、この伝染病の大流行を見ると頷けますね。本日も三国志の話題をご馳走様でした。