中華文明は、黄河(こうが)の周辺で誕生しました。その意味において、黄河は中華文明のユリカゴと言えるでしょう。しかし、同時に黄河は、何度も氾濫を繰り返す暴れ河であり、常に居心地の良いユリカゴであり続ける事はありませんでした。今回は、時に政治体制をも変えた、暴れ河、黄河について書きます。
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黄河は、世界有数の土砂を含む河
黄河は、中国の北部を流れ、渤海(ぼっかい)に注いでいる大河です。全長は5464キロにもなり、世界第6位の長さを誇ります。しかし、黄河の特徴は実は、長さではありません。黄河は上流で細かい砂を大量に含む黄河高原を通過します。この時に、流れの中に大量のシルトと呼ばれる黄砂を含むのです。黄河に含まれる土砂は、大量で年間で16億トンに上ります。渤海の内陸部は、この黄河から吐き出される土砂で自然に埋めたてられたものだったりするのです。それは、俗に「水一石に泥六斗」と呼ばれる程であり、一石は、100リットルで六斗は60リットルですから、なんと、水の半分以上は土砂という事になります。実際には、そこまで土砂の比率が高いわけではありませんが、それでも、世界の河川では断トツに土砂を含んでおり、それが黄河の水を黄色く濁らせているのです。
黄河を制するものは天下を制した
このように土砂を大量に含む黄河は、大変な暴れ河になります。上流域から流れてきた土砂が、中流域で溜まり、次第に川底が、浅くなっていくのです。そうなると、長雨によって水流が増えると、河は簡単に氾濫を起してしまいます。華北地方は、平坦な土地なので、黄河の氾濫は大惨事になります。しかも、吐き出される水には大量の土砂が含まれるのです。建造物は、土砂の力で押し流され、都市は黄砂に埋まります。黄河の氾濫で消滅した都市が幾つも出ました。そればかりではなく、黄河は、氾濫により簡単に流れを変えます。例えば、平坦な道路で、ホースから水を流すと、水の強さ次第で、簡単に流れが変わるのを理解できると思います。土砂の堆積で底が浅くなった黄河でも、これと同じ事が起きたのです。それまで黄河に無関係な都市が、黄河の流れの変更により消滅しました。このような事から、中華文明は、黄河を治める治水技術を発展させる事になります。また、黄河の治水は大工事なので、多くの人間を長期間、継続的に厳しく監督するリーダーを必要とする事になります。こうして、古代中国では、聖人と呼ばれた禹(う)のような人物が出現し何十年という苦労の果てに、堤防を築き黄河を治めました。土木技術者だった、禹は、こうして万民に崇められ王朝を建国します。これが伝説上の夏(か)王朝の誕生なのです。
春秋戦国時代、核兵器のような存在だった黄河
時代が下り、春秋戦国時代に入ると、黄河に面している国は、堤防を築いて、氾濫を防衛するようになります。しかし、ある国が意図的に黄河をせき止めて堤防を決壊させると下流に存在する国が消滅するので、各国は同盟し、「黄河を戦争には利用しない」とする誓いを結びます。この誓いは強力で、裏切りが当たり前だった春秋戦国の500年間、遂に破られなかったのです。まるで現代の核兵器のような存在が黄河でした。
紀元前132年、黄河、濮陽で大決壊!
紀元前132年、黄河は濮陽(ぼくよう)で決壊します。これにより、当時の経済の中心だった、淮北平野が土砂で覆われる事になり甚大な被害をもたらしました。決壊した堤防は、紀元前109年に塞がれますが、河筋が変わった黄河は、その後、頻繁に氾濫を起すようになります。
西暦11年、黄河さらに決壊、黄河下流が大惨事に・・
氾濫を繰り返す黄河を鎮める為に、紀元前7年に賈譲(かじょう)という人物が、治水プランを出しますが、王莽により簒奪寸前の前漢王朝に、そんな大土木工事を行う力はありませんでした。
西暦11年、王莽(おうもう)による簒奪が起きてから3年後、再び黄河は決壊、黄河の下流域に甚大な被害を与えます。混乱している時代に起きた決壊ですから、無策な王莽に民衆の不満は高まった事でしょう。結局、王莽は黄河の治水を行えないまま、政権は23年に倒れます。
後漢の王景、黄河を1000年治める
西暦69年、ようやく国力の落ち着いた後漢王朝は、暴れ河になった黄河の大治水工事に着工します。その大任を受けたのは、王景(おうけい)という人物でした。彼は優れた土木技術者でした。これまでの治水工事が、結果として、土砂の堆積を招き、長雨による決壊を招いた事を理解していた王景は、画期的な方法を2点採用します。
①当時華北平野で最も低い地点で、かつ渤海まで最短距離で、到達する河川に黄河を合流させる。こうする事で、河のスピードがあがり土砂を堆積させず、渤海まで持っていく事が出来る。
②黄河に支流を造る事で、黄河の勢いを分水させる。これにより長雨で黄河が急に増水する事を防ぐ事が出来る。
工事は10万人という人夫を動員した大工事で1年で終了します。王景の治水工事は抜群の効果を挙げ、以後、黄河は800年以上氾濫を起す事がなく、流れの変更に関しては1034年まで、1000年近く起きませんでした。
黄河の氾濫が起きなくなった、もう一つの理由
王景の治水工事が成功したのは、もちろん、王景の治水プランが優れていたからですが、実は、もうひとつ理由があります。黄河の中流域までには、漢民族の勢いが及ばず、その土地は遊牧民の生活する土地になります。その為に広大な地域は牧草地に変わり、土砂の流出が少なくなり、黄河に含まれる泥の量も小さくなったのです。その証拠に唐代以後、漢族が再び黄河中流域に進出して、農耕を開始すると、黄河には再び、大量の土砂が混ざり、黄河は再び氾濫を起すようになります。
黄河の氾濫と水滸伝(すいこでん)の意外な関係
西暦944年、五代十国時代の中国で、再び黄河は氾濫を起します。この時の洪水は、元々、海抜0メートル以下だった山東省西部に、沢山の水たまりや沼を産み出します。そこにあった梁山という山の周辺も、黄河の氾濫で水が流れて湖になっていきました。
そうして、この地は梁山泊(りょうざんぱく)と呼ばれるようになります。このような湖は、草が生い茂る天然の隠れ家で夜盗や山賊が隠れるには最適でした。そう、三国志から900年後を舞台にする、水滸伝は黄河の氾濫がなければ生まれない話だったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
黄河こそは、中華文明の中央集権制と絶対権力を産み出した源泉です。巨大な暴れ河だった黄河は、生半可な工事では抑えられず、強大な権力を握る絶対者のリーダーを必要としたのです。王景の考えた、分水や高低差を利用した河の流れの調整は、今日でも、水量の多い河川の治水に使われる方法だったりします。後漢時代の治水技術のレベルの高さがしのばれますね。
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