海を隔てて、隣同士の日本と中国、顔つきもよく似ていて、同じ漢字の国で、
親近感を持つ人もいるようですが、実は、この二つの国の文化は大きく違います。
その違いは、それこそ多岐に渡りますが幾つかを紹介しましょう。
この記事の目次
羊を盗んだ父を告発した子に対する、孔子の驚きの答え
中国における孝(こう)は、公(こう)を遥かに超える価値として存在します。
つまり、親孝行は、主君への忠義に勝るというのです。
それを端的に記す逸話を孔子(こうし)の話から拾ってみましょう。
ある県の長官が孔子が訪問した際に、こんな自慢話をします。
「私の県には、父親が羊を盗んだ事を告発した正直な息子がいます」
すると、孔子は、このように言い返しました。
「それは私の故郷の正直者とは違います、父は子の為に罪を隠し、
子は父の為に罪を隠す、これこそ正直さです」
公よりも孝を優先する中国人の思想
ここには、泥棒であれば、肉親でも告発するのが正しいという
日本的な倫理観に真っ向から対立する価値観があります。
もちろん、人間であれば、肉親を庇いたいという気持ちはあります。
でも、公共の安寧の為には、そんな私情は許されないでしょう。
ところが、儒教の価値観では、私情が優先され、親は子を庇い、
子は親を庇う事が美しいとされるのです。
中国は、今も昔も縁故採用の世界であり、賄賂と汚職が絶えませんが
そこには、身内と見做されたものはとことん庇うという、
儒教の価値観が反映されているように感じます。
退却が恥である日本、最期に勝てばいい中国
戦争においても、中国と日本では、根本的な部分に違いがあります。
島国の日本では、まず、退却する事を恥と見做す文化があります。
それは、海に囲まれた島国の特性で、退却に限りがあるからでした。
一方の中国では、逃げる事を恥とする文化はありません。
漢の高祖、劉邦(りゅうほう)を始め、旗色が悪くなったら逃げるのは常套手段です。
もちろん、大陸である中国では運が良ければ、どこまでも逃げられます。
必死に逃げ回りながら、謀略を駆使して、相手の力を削ぎ、
味方を増やして、いつの間にか逆転するというのが中国における名将で、
最期に勝ちさえすれば、恥も外聞もないのです。
この大陸的な戦争スタイルに、日本は苦しめられ、日露戦争でも、
支那事変でも、泥沼の消耗戦に引き込まれました。
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美しい勝ちに拘(こだわ)る日本、勝つ事のみに拘る中国
日本の戦争は、習慣の近い、幾つかの民族同士の島国における戦争です。
そこでは、外来者という意識は薄く、同族同士の抗争が起きるので、
目を背けるような徹底した非戦闘員の虐殺というのは、あまり起きません。
同時にそこでは、美しく勝つという感覚が産まれ、卑怯、卑劣、
見苦しい戦い方は、激しく嫌われました。
もう、勝ち目がないのに、見苦しくあがくと、「往生際が悪い」
「武士にあるまじき振舞い」と批判され、勝利も敗北も美しく、
キレイに勝って、執着せずあっさり死ぬのが美徳とされました。
一方の中国は、多民族国家であり、しかも、その勢力圏が、
激しく入れ替わりました。
戦いの相手は、あかの他人であり、一切の情け容赦がなく、
女子供に至るまで、皆殺しは珍しくありません。
それこそが報復を免れる唯一の合理的方法だからです。
敗れても助命されないのですから、どんな卑劣な手を使っても
生き残ろう、勝ち残ろうとします。
当然、その戦争における被害者はケタ違いになり、憎しみは連鎖し
おびただしい血が流される血ぬられた乱世が続きます。
孝忠の国、中国、忠孝の国日本
共に、儒教の大事な徳である、孝と忠、「孝」とは、
親に孝行を尽くすという美徳であり「忠」は主君に尽くすという美徳です。
海を隔てて、近い両国ですが、とりわけ忠と孝の順序については
全く、正反対になっているのです。
忠の為におのれの生命を投げだす、楠正成(くすのき・まさしげ)
日本においては、主君の為に、生命を捧げるのが美徳とされます。
後醍醐天皇の側近で、建武の新政の功労者、楠木正成は
天皇に一度は敗北して逃げた足利尊氏が、天皇の政治に不満を持つ武士を、
味方につけて再び強大になった事を危惧します。
そして、「尊氏と和睦して、武士の言い分も聴いて下さい」と
帝に諫言しますが、容れられず、手勢800騎を引きつれて、
尊氏の3万の大軍と戦い戦死しました。
本来ならば、融通の利かない主君は見限って敵に寝返っても、
非難されない乱世でありながら、敢えて最期まで天皇の忠臣として
戦い死んだ正成は、忠義に生きた武士の鑑とされました。
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