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周囲の勧めにより、単于の位に就く
劉淵は匈奴の地に帰ると早速兵を集めます。左賢王で劉淵の一族である劉宣(りゅうせん)は彼に「淵よ。晋は王達が争い国内はぐちゃぐちゃになっておる。この機に匈奴としてはお主を単于に立てて独立を果たしたいと思っておる」と相談されます。
劉淵はこの相談に対して、苦笑いで返しますが、家臣達や各部族の王達も劉宣と同じように彼を説得します。劉淵はかなりの間悩みますが、皆の意見に従って単于の位に就任します。
蜀の劉備の子孫を名乗り「漢」と名乗る劉淵
劉淵は各地の異民族と協力関係を結び、大勢力を築きます。その後中華との国境に近い城で、前漢・後漢・蜀漢の末裔と称し、漢王を名乗ります。
この時劉淵は自らを劉備の子孫と称し、劉禅に孝懐皇帝を諡(おくりな)として送ります。こうして劉淵は漢王を称すると晋から完全に独立し、将軍の位を与えてくれた司馬穎が亡くなると晋国内に侵攻を開始します。
漢の皇帝に就く
劉淵は漢王を称した後、中原に侵攻を開始します。彼は中原になだれ込むと、楚漢戦争時代楚の項羽(こうう)と秦の章邯(しょうかん)が激闘を繰り広げて有名になった鉅鹿(きょろく)や常山などの都市を陥落させ、一気に勢力を拡大させます。
劉淵は中原の一角を支配することに成功した事で漢の皇帝に即位。その後も各地の晋の残党や北から中華に侵入してきた異民族である鮮卑(せんぴ)族と戦い続け、河北統一を目指します。しかし皇帝に即位してから二年後、劉淵は志半ばで亡くなってしまいます。
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三国志ライター黒田廉の独り言
劉淵は晋王朝を実質的に崩壊させた人物です。匈奴軍の中原乱入により、晋は修復不可能な状態に陥り、匈奴をまねて鮮卑族や氐族、さらに漢族の反乱などが地方で頻発することになります。
劉淵が築いた漢ですが、その後四男が皇帝の位を継ぎ、晋王朝の首都洛陽を陥落させ、皇帝を捕虜にした事で晋の王朝は終わりを迎えます。しかし生き残った晋の皇族や王族達は江南に逃げ、東晋を建国。
西晋滅亡後(司馬炎が建てた晋)100年ほど存続します。また劉備の子孫を称した劉淵ですが、劉備と血縁の関係は全くありません。しかし「三国志演義」の続編と言われる「後・三国志演義」という大衆向けの歴史小説で彼は劉備の子孫となっているだけでなく、五虎将軍の子孫を率いて、晋から独立を果たし討伐に向かうまでの物語となっております。
興味のある方は読んでみてはいかがですか。「本日の匈奴のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじさんでお会いしましょう。それじゃまたにゃ~。」
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