強化するように指示した睆(かん)城を、
夜明けからたった数時間で、撃破してしまうという電撃戦を行います。
え?それがどうかしたのかですって? どうしたもこうしたも・・
だって、甘寧と凌統は、三国志史上、最凶に仲が悪いのですから・・
よく二人で喧嘩しないで戦えたなァと思うのです。
この記事の目次
行きがかりとは言え、凌統の父を射殺した甘寧
甘寧は元々は、劉表(りゅうひょう)の配下で、
江夏城を守っていた黄祖(こうそ)の部下でした。
黄祖は、以前、攻め込んできた孫堅(そんけん)を殺していて、
その恨みを晴らそうと考えた孫権は、西暦205年に、
軍を率いて江夏に攻め込みます。
しかし、この時は、敵将で元海賊、甘寧の操る水軍に歯が立たず惨敗
乱戦の中で、凌統の父、凌操(りょうそう)は甘寧に矢で射殺されます。
残された凌統は、父の仇である甘寧に復讐を誓いますが、
ここで、皮肉な事が起きてしまうのです。
黄祖の待遇の悪さに甘寧が孫権に寝返り、黄祖を撃破!
なんと、孫権の最大の障害だった甘寧が部隊と共に降伏してきました。
理由は、黄祖が甘寧を認めず、ろくに恩賞もくれないからでした。
もちろん、孫権は甘寧を大歓迎で迎え、再び、江夏城を総攻撃、
今度は、黄祖も成す術なく戦死します。
こうして、呉には、甘寧と凌統という、最凶の犬猿の仲が
誕生する事になってしまいます。
三国志演義の仲直り話はなんと嘘!!
三国志演義によれば、元々は足を引っ張り合う仲だった二人は、
濡須口(じゅすこう)の戦いで魏将、樂進(がくしん)の馬を
甘寧が得意の弓で倒して凌統のピンチを救い、それを契機に仲直りしたとされています。
しかし、それは、全くの作り話で、事実ではないようです。
流石に父を殺された恨みは深く、凌統は一生、甘寧を許さなかった
というのが事実に一番、近いようです。
酒が回り、座興の剣舞が始まると、辺りは一触即発に・・
二人は、いついかなる時も、一緒にいるといがみ合いました。
ある戦勝の宴では、犬猿の仲の二人が、共に酒を飲む事になります。
酔いが回り座が盛り上がると、酔った凌統は、、
凌統「これより、それがしの剣舞をお目に掛ける」
といい、腰の剣を抜きはらい、舞いを見せますが、
何故か、甘寧の座席に殺気を向けていて、今にも襲いかかりそうです。
それを見ていた甘寧も目をすわらせて、、
甘寧「どおれ・・俺様の戟の腕前も披露致そうか」
というや、手元の戟を取って立ち、たがいに刃を交えて、
本気で殺し合いを始めるという始末でした。
エキサイトした二人は、おいそれと引き離す事も出来ず、
毎回、上官である呂蒙(りょもう)が決死の覚悟で引き離していました。
孫権の命令で、甘寧は半州に飛ばされる
二人のいがみ合いがあまりにヒドイので、孫権は、
窮余の策として、甘寧を半州に飛ばして、決して二人が、
同じ場所に居合わせないようにしたようです。
これも恐らく、二人の上官である呂蒙が・・
「殿、甘寧と凌統をなんとかして下さい、、
このままでは、私の身がもちません・・」
とか何とか言ったのを孫権が了承したのではないかと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
犬猿の仲とは言え、個々人の武力は抜群である事は、
皖城がたった数時間で陥落するという電撃戦にも表れています。
凌統は、個人的性格にも問題がある甘寧と違い、非常に義理堅く、
がまん強い性格で、215年の第二次合肥の戦いでは、大将である
孫権を逃がす為に、300名の手勢で張遼に立ち向かい、
瀕死の重傷を負いながら無事に生還するという大手柄を立てました。
運命のいたずら、凌操を殺したのが、甘寧でなければ、
少なくとも管理職の呂蒙は、もっと楽だったでしょうね。
本日も三国志の話題をご馳走様です。
今回の記事は大戦乱!!三国志バトル」コラボ特別記事
この記事を書いた人:kawauso
■自己紹介:
どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。