何万という大軍が動く戦場において、一番大事なのは食糧(兵糧)です。
かのナポレオンも、兵は胃袋で動くという名言を残していて、苦難の行軍に耐え、理不尽な命令に兵士がつき従うのも、「大将についていけば食べさせてくれるから」がほとんどの理由でした。
では、三国志の時代の命綱、食糧倉庫はどうなっていたのでしょう?
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拠点に食糧を守る砦を築いて、兵を置いて守る
食糧倉庫と言えば、官渡の戦いにおける、袁紹(えんしょう)軍の大食糧倉庫があった烏巣(うそう)が有名でしょう。曹操(そうそう)軍の嫌らしいネチネチした補給部隊の奇襲に悩まされた袁紹は、点在していた食糧倉庫を、烏巣にまとめて、やや多めの兵を配置して、一括管理するようになります。
もちろん、ここを曹操に見つかり焼き払われると、危ないのでもっと、守備兵を増強すべしと主張する沮授(そじゅ)のような軍師もいましたが
「こんだけ広大な戦場で、烏巣が特定できるもんか心配しすぎ」
という圧倒的な声に押し切られました。
ところが、袁紹の処遇に不満を抱いた、許攸(きょゆう)が曹操に投降し、この烏巣の食料倉庫の事を率先してゲロったので、戦争は曹操軍の勝利に終わる事になります。
食糧倉庫は、木の柵で囲われ、防御力が弱かった
さて、当時の食糧倉庫は、どのようなものだったのでしょう。
やはり、いつまでも置いておくものではないので、城壁も時間がかかる土を突き固めた版築(はんちく)工法ではなく、簡単な板の壁で造られていました。
つまり、敵の奇襲に弱く、特に火計については最悪でした。官渡の戦いでなくても、しばしば劣勢の軍勢が、敵の食糧倉庫を焼き払って勝利するのは、つまり、食糧倉庫が襲いやすいからという事なんですね。
食糧倉庫の様々なタイプ、倉、囷、窖
そんな食糧倉庫には、いくつかのタイプが存在していました。私達にも分かりやすいのは、倉(そう)でしょう。これは、方形の木造の食料貯蔵庫で、今でも倉庫という言葉で、私達が日常使用しています。
変わり種は囷(きん)で、これは地上に柱を立てて、その上から、土をかぶせて円筒形の建物にしたものです。今でいうと、牧場のサイロによく似ています。
この囷は直径3メートル、高さは5メートルあります。一つで2000名の兵士の食料を一カ月確保できました。
また、地下を掘って造る窖(こう)というタイプの食料倉庫もあります。これならば、火を掛けられても燃えませんが、おそらく、造るのに手間がかかり、倉や囷ほどには、普及しなかったのではないかと思います。
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烏巣の食料倉庫の規模はどの程度か?
官渡の戦いの袁紹軍の兵力には、諸説ありますが、仮に10万人だとして、戦の期間が8カ月だったとすると、囷だけで換算しても、400個という数が必要になります。
また、袁紹軍には騎馬隊もいるので、馬の食料や藁なども計算に入れると600とか、700とかの高さ5メートルの巨大な食糧倉庫が、一か所の砦に集中する事になります。
幾ら、広大な中国大陸でも、そんな大量の囷が立ち並べば、かなり遠目でも、あ!食糧倉庫だと分ったような気がします。
それに、規模だって周囲数キロにはなる筈なので、やはり、守備兵を増強すべしという沮授の進言は、正しかったのかも知れません。
事実、曹操が焼き払った烏巣の食糧倉庫は紅蓮の炎をあげて燃え続け、夜間に遠目でも確認できたそうです。
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三国志ライターkawausoの独り言
食糧が尽きるとどんな大軍でも一日で崩壊してしまいます。それを考えると、補給路は大事なんですが、どうしても、砦は急ごしらえなので、敵に狙われやすくなったようです。
コーエー三国志でも初期のゲームでは、食糧倉庫配置があり、ここを敵に奪われると即座に負けというルールでした。
本日も三国志の話題をご馳走様・・