現代中国語ではペットのことを「寵物」と言い、飼うことを「養」と言います。歴史書には見られない「寵物」という単語は恐らく近現代になって造られたものでしょうが、とすると昔の中国にはペットという存在がなかったのでしょうか?
この記事の目次
ペットってなに?
そもそも何をもって「ペット」と呼ぶのかという問題があるのですが、私たちがペットと言う時、普通は畜産業で飼育されている動物は含まれず、愛玩目的で飼う動物のことですよね。
しかし生活環境の異なる時代においても、同じ感覚で動物を飼う習慣があったとは限りません。たとえばイヌであれば獲物を狩るための猟犬や家を守る番犬、ネコであればネズミ駆除、ウシならば農耕や荷運び、馬は移動手段と、愛玩以外の目的で飼われたケースは多かったことでしょう。
動物飼育を史料で調べてみる
史料を調べてみると、動物飼育に関する最も古い記事は三大マナーブックその一『礼記』祭義で、「その昔、天子や諸侯には必ず養獣の官というのがいて、折々に……祭祀の生贄にした」とあり、ブックその二『周礼』秋官司寇には「牛馬を養い、鳥と会話する」役人や、「獣を養い、調教する」役人がいることが書かれています。
(鳥と会話する、というのは鳴きマネなどでトレーニングしていたということでしょう)。
王様レベルとなると、動物を飼ってはいるものの、それは愛玩目的ではありませんでした。もちろん一部はお庭を彩る憩いの存在という線もありますが、主には家畜や供物用に飼育・調教されていたのです。現代なら動物愛護協会に訴えられてしまいそう。しかしこれはあくまで王様の例であり、一般人の場合はもう少し違ったようです。
陸遜の孫・陸機は犬を可愛がっていた
たとえば三国呉の武将で有名な陸遜(りくそん)の孫の陸機は小さい頃から狩猟好きで、黄耳という名前の足の速い犬をとても可愛がり、都での仕官後も常に連れていました。
この犬はとても賢く、道を覚え一日で家に帰ってくることができました。ある時、呉の実家とすっかりご無沙汰だった陸機は、犬に向かって「我が家とは絶えて音信が無い。お前、便りを持って消息を伝えてくれないか?」と笑って言いました。
犬はシッポをふりふりワンと吠えました。陸機は手紙を認めて竹筒に入れその首に括りつけました。犬は道を辿って南に走り、ついに家に至ると、お返事を持って都の陸機の許に帰ってきました。
それ以後、こうして連絡を交わすようになったそうです。これは『晋書』や『述異記』等に載っている話ですが、イヌの帰巣本能を利用してメッセンジャードッグにしていたのですね。
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捜神後記に記された忠犬のお話
また有名どころでは、六朝時代の著書とされる怪奇伝説集『捜神後記』に書かれた忠犬エピソードがあります。東晋の太和(366~371)年間に、広陵の人で楊生という男がいました。
彼は一匹の飼い犬をそれはそれは可愛がっていて、どこへ行くにもいつも一緒でした。この犬は大変賢く、機転を働かせては楊生の窮地をたびたび救ったそうです。このようにペットとして飼われた犬の例は史料にちらほら見られますが、あくまで主要な役割は猟犬や番犬で、ただ可愛がるためだけに飼うことはメジャーではなかった様子です。
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古代中国の犬はどんな種類だったの?
ところで当時中国にいたイヌって、どんな種類なのでしょう?
藤島志麻氏の「中国古代のイヌの品種改良」という調査報告書によると、考古学の発掘調査から以下のことが分かっているようです。
①中国で出土したイヌの骨を調べてみると、
新石器~周代のイヌはどれも立ち耳で、いずれも柴犬程度のサイズ。
②漢代から猟犬・番犬・贄犬と、用途別に品種改良が行われるようになった。
③南北朝以降は、サイズは変わらないものの、垂れ耳のイヌの埴輪が登場する。
④唐代に入ると、それまでに見られなかったタイプの犬が登場し、「中東原産の古代犬とされるサルーキに似た大型犬」と「パピヨンに似た小型犬」が、いくつかの絵画史料でうかがえる。
⑤『旧唐書』西戎伝、『新唐書』西域伝それぞれに、高昌国(現在のウイグル地方にあったオアシス国家)の王が雌雄一対の「拂菻狗」を献上した記事が見え、「高さ六寸、長さは一尺余り。
大変賢い性格で、上手に馬を曳いたり明かりを咥えて持つことができる。もともとは拂菻産であるという。いまの中国の拂菻狗はここから始まる」という。
拂菻は通説では東ローマ帝国のことで、紀元前4世紀のローマ帝国時代の子供の墓碑にもこれに似たイヌの像が彫られている。⑥玄宗皇帝時代の武官であった韓貞の墓から発見された「三彩狗(三色に彩られたイヌの埴輪)」は、それ以前の出土文物には見られない長毛犬。
⑦宋代より「払菻狗」の埴輪は庶人の墓にも副葬され、遼代には宦官や軍人の墓室の壁画にも描かれるようになった。
宋代より先については割愛して、このうちの数点について補足しつつ分析してみます。まず②ですが、漢代といえば、皇室御用達の護衛犬(ガード・ドッグ)であったとされるハン・ドッグがいました。
すでに絶滅した古代犬ですが、発掘品から、日本犬に近い尖った鼻先と立ち耳、カールしたシッポという狼っぽい見た目(スピッツタイプ)の中型犬だと推測されています。チャウチャウとシャー・ペイの祖先ともいわれ、実際出土しているイヌの埴輪の中にはシャー・ペイっぽいものもあります。
サンフランシスコ・アジア美術館(前漢~後漢代) wikipedia
④のサルーキは最も早くにオオカミから分化し、人に飼われるようになった最古の犬種です。
エジプト王朝でもファラオの愛犬だったそうですよ。ただ唐代のお墓から発見されたイヌの図を見ると、垂れ耳のサルーキよりは立ち耳にも思えます。当時の画風の問題でしょうか。
李重潤墓 薛氏墓
サルーキは狩猟本能が強く、アラブの遊牧民は歴史的に鷹狩りの猟犬として育てていたようです。狩人は騎馬で鷹狩りをしますので、鷹と一緒に描かれた壁画の情景と一致します。
南宋に描かれたイヌ画もサルーキの特徴とよく似ていますし、早くから中東より中国へ入ってきていた可能性は高そうです。
李迪『猟犬図』 南宋
もう一つの「パピヨンに似たイヌ」というのは、中国の切手にもなった『簪花仕女図』に描かれた二匹の仔犬のことですが、確かによく見るとそっくり。
パピヨンは中~近世ヨーロッパの貴婦人の間で人気の愛玩犬で、16世紀(14世紀説も)から登場するようになりますが、この書画を描いた周昉は中唐のお人ですので、もしこれがパピヨンであれば少なくとも8~9世紀まで遡れることになりますね。
しかも唐でもやはり上流階級の女性に可愛がられている様子なので、これは砂漠を越えて貢物か何かで贈られ、愛玩を目的として飼われたイヌだったのでしょう。
⑤の馬を曳く犬というと、一瞬ダルメシアンが思い浮かびます。某101匹でおなじみのダルメシアンは馬に馴れる習性を持った唯一の犬種。
紀元前からインドやエジプト、ギリシャ等で存在したことが確認されており、欧米では歴史的に馬車の伴走犬や消防馬車の先導犬として活躍したことで有名です。
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チワワサイズの小型犬も人気だった?
一方、唐代史書の記録は体高約19cm、体長約31cmと、どう見積もってもチワワサイズ。
特徴である斑点模様の描写もありませんから、ダルメシアンのイメージとは合いません。むしろ先程のパピヨンの方が近そうですね。最近は小さな犬が馬の手綱を咥えてリードする映像がネットにいくつもアップされていますので、案外それくらいの芸当ができる犬種は多いのかも?
何にしても小型犬であれば、猟犬や番犬にはあまり向いていないですから、純粋に愛玩犬だったのでしょう。
三国志時代のペット事情が興味深い!のまとめ
以上をまとめると、古代においてイヌは(一部例外はあるものの)身分問わず生活や仕事上の必要性から飼われるのが基本だったようです。
だから大きさもお役立ちサイズの中~大型犬なのですね。それが唐代あたりから上流階級で外来の小型犬が可愛がるためだけのペットとして飼われるようになり、宋代頃には庶民にも愛玩犬を飼う習慣が浸透していき……と時代の流れで少しずつイヌを飼う意義が変わっていったことがうかがえます。
しかしたとえ元は愛玩目的ではなくとも、育てているうちにその動物に対して愛情が芽生えることは当然あったはず。特にイヌや馬なんて主人に忠実ですし、そうした心の動きは古今不変です。
もっとも、呂布や関羽と赤兎馬の関係を現代感覚のペット=愛玩動物と呼ぶかは悩ましいところですが、飼い主と動物の間の絆という点はいずれも変わりはないといえるでしょう。
【参考1】