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陸雲(りくうん)ってどんな人?やり過ぎー!元祖、曹操オタクは陸遜の孫だった?

2015年12月15日


 

陸雲02

 

蒼天航路以来、曹操の魅力に取りつかれた人々を曹操孟徳(そうそうもうとく)オタク、

略してモーオタと言います。

しかし、4000年の歴史を持つ中国ではモーオタは遥か昔から存在していました。

そして、元祖モーオタは、陸遜(りくそん)の孫だったのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元祖曹操オタク、陸雲とは何者か?

陸雲01

 

最初のモーオタ、陸雲(りくうん:262~302年)は、字を士龍(しりゅう)

といいます。父は、呉の名将、陸抗(りくこう)、祖父は蜀キラー陸遜という名門の出です。

6歳で文を能くしたという程の秀才であり、呉随一の文学者でした。

 

277年16歳で呉に仕官しますが、すでに呉は滅亡寸前、

3年後には、呉帝、孫晧(そんこう)は晋の司馬炎(しばえん)の前に降伏してしまいます。

 

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呉の滅亡にショックを受けた陸雲と陸機は故郷に引きこもる

陸雲03

 

呉の滅亡は、19歳の少年には、ショックが大きい事でした。

そこで晋にはすぐに仕える事なく、兄の陸機(りくき)と共に故郷に引きこもり、

晴耕雨読の日々を送る事10年の長きに及びました。

 

 

陸雲、陸機、晋の官僚に仕官する

司馬炎 はじめての三国志

 

二人にとっては、幸いなことというべきか、晋の武帝司馬炎(しばえん)は

融和的な方針で蜀や呉の旧臣にも仕官の門戸を開いていました。

その縁で陸雲も陸機も、10年の後に晋に仕官する事になります。

二人は、長江を上って洛陽に入りますが、その都のスケールのデカさに

度肝を抜かれてしまう事になります。

 

「な、なんだべ、このデカイ建物は、、こんな凄い国の基礎は、

いったい、誰が造り出したんだべか!!」

 

二人は、統一国家、晋の偉大さにすっかり魅了されてしまいました。

 

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陸雲、晋の母体になった魏の曹操の偉大さに触れて、モーオタになる

陸雲04

 

陸雲は、晋の官僚として仕事をしている間に、晋の母体になった

そして、その魏を建国した曹操について知る事になります。

 

曹操は、陸雲が産まれるよりも42年前に死没した人ではありましたが、

その事績を調べるにつけて、陸雲は曹操を激しくリスペクトするようになり、

次第にモーオタの本性をあらわすようになります。

 

 

 

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陸雲與兄平原書(りくうん・よけい・へいげんしょ)に書かれた、陸雲の曹操オタクぶりとは?

 

陸雲05

 

さて、この陸雲、アクティブにも、鄴(ぎょう)にあった曹操の故宮を訪れています。

そして、その感想を兄、陸機に手紙として送っているのです。

曹操が死んでから70年近くが経過し、今や魏は無いのですが、

魏の後継を自認する晋は、魏の文化財を保護していて、陸雲が生きていた時代

鄴には、曹操の故宮が生前のままに残っていたようです。

 

陸雲07

 

「先日、鄴宮を訪問し曹公の遺品を見てきました。

まず寝台と敷き物があり、冬と夏用の寝衣が7枚ありました。

呉と似たような文官用の頭巾もあり、冠も揃っています。

化粧箱は七~八寸(24センチ)の四角で高さは4寸(12センチ)あまり

箱の中に仕切りはなく、呉の人々が使っているのと同じです。

 

化粧箱は使い込まれてすり減っている所が目につきます。

くしや爪楊枝、冠の被りも全て揃い、目を拭う為の黄色の綿入れもありましたが

涙で汚れて黒ずんでしまっています。

 

手甲や竹製の寝台、敷布団、碁盤や文箱もありました、上奏文を載せる

机が大小5つ、本を運ぶ為の車もあり書見台は横になって本を読めるように

なっていました。

 

扇は呉の物と同じで持ち運びが便利な開閉式の腰に差すものです。

筆も硯も呉と同じで、書刀が5本にガラス製の筆が1本見受けられます。

曹公の遺品は皆質素でありました。」

 

鄴宮には、曹操が生前使用していた道具が保管されていたようです。

書刀(しょとう)というのは、まだ竹簡に文字を書く事があった三国時代、

木簡の表面を削って文字を書きやすくする為に使ったペーパーナイフの事です。

また、折り畳み式の扇子が当時、あった事も分かります。

 

モーオタ陸雲、曹操をリスペクトする余り禁断の行動に・・

陸雲06

 

ところが、陸雲、リスペクトする曹操の遺物に囲まれて

テンションが上がり過ぎてしまったのか、

ついにとんでもない事をしでかしてしまいます。

陸雲08

 

「最近、曹公の遺物を調べてまわり、爪楊枝を一本拾いました

こちらを兄上にお送りします」

 

曹操の時代の爪楊枝には、もちろん、木製もあったでしょうが、、

曹操没後、70年も持つわけはありませんので、陸雲が拾ったのは、

金属製の爪楊枝だと推定されます。

 

しかし、金属製の爪楊枝が、そんなに道に落ちているものでしょうか?

これは、曹操の遺物を落ちていた事にしてパクったという事だと

どうしても解釈してしまうのです。

 

仮に落ちていたとしても、それは所有権の放棄を意味しないので、

遺物を元の場所に戻すか、そのままにしておくべきです。

それをパクるのは色々な点で法に触れるような気が・・・・

 

三国志ライターkawausoの独り言

陸雲09

 

陸雲は爪楊枝ばかりでなく、墨や綿棒などの小物もパクリ兄の陸機に送っているようです。

もしかすると、晋は、そのような小さなパクリ行為に寛容だったのかも

知れませんが、うーん、恐るべしオタク魂です。

 

今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。

もちろん、食べるのはサーモンです。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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