電子書籍が一般化しても、やはり分厚い紙の本の存在感は高いです。スマホがなくても読めますし、電気も要らず、どこへでも持ち運べます。そして、何より、いつまで放置しておいても腐りません。
では、三国志の時代、このような本を大量に持っていたのは、どこの誰だったのでしょうか?
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紙の発明が、本を普及させた
現在のような紙が発明される前、中国では木簡が利用されていました。木簡は、長さ23センチ、幅2センチの長方形の形で、幾つかの木簡を紐で繋いで、一章の話にしていました。今でも本を制作、改訂、修正する作業を編集というように、編という漢字にいとへんが入るのは、この木簡を紐で綴るという事に由来しています。
木簡の欠点、かさばる・・
木簡には、字を失敗しても削れば済むという利点があり、大体、一章ごとに竹簡はまとめられているので、紙の本のように膨大なページ数から必要な一文を探すのも難しくありません。
ですが、木簡の最大の欠点は、重くかさ張るという事でした。紙の本に比べて、収納スペースは500倍も必要になります。これでは、個人の家では、沢山の本を収蔵するのは難しく、実際に紙が発明される前までは、最大の蔵書家は国家でした。
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紙が普及すると、各地で蔵書家が出現する
紙の発明は、2000年前には遡りますが、当初は文字を書ける程はなめらかではなく、包装紙のような扱いでした。しかし、蔡倫(さいりん)など、紙の改良に尽力した人々の手で、文字を書ける現在の紙に近いものが出来上がるようになります。
前漢時代の末には、班ゆうと呼ばれる人が蔵書家だったようです。
余り関連性がはっきりしませんが、漢書を書いた歴史家・班固(はんこ)と同姓であるので、恐らく、そのつながりでの蔵書家だったのでしょう。学者として名高い揚雄(ようゆう)や桓譚(かんたん)が珍本や希本を見に訪れた程だそうです。
具体的に何冊という記述はありませんが、紙と木簡を合わせて、数千冊という位が妥当かも知れません。
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三国志の時代には、あの人が一番の蔵書家
時代は下って、後漢の末期になると、あの董卓(とうたく)でさえ一目置いた、学者の蔡邑(さいゆう)が最大の蔵書家と言われました。彼の家には一万巻の書物があったようです。
その書物の大半は、国からもらったもののようですが、ここでようやく万巻の書を保有する知識人が登場する事になります。
この頃には、一般の役人でも中級クラスでは、百巻の書を持つ人も珍しくなくなりますが、史記や漢書が100巻超えである事を考えると種類は限られていて、多種多様な本を持っているという程までは普及していなかったようです。
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晋の時代の蔵書家、張華の蔵書は何と・・
その後も書物は増え続けてゆきます。晋の時代の有名な宰相である張華(ちょうか:232~300年)は当時の最大の蔵書家で、なんと個人の蔵書が車30両分もあったようです。すべてが紙の本だとすると、一人で何万冊と本を持っていた事になります。
この頃になると、地方でも蔵書家が増えて、すでに数千冊程度では、話題にもならない位にありきたりでした。
三国志ライターkawausoの独り言
本の量は、その国の文明の尺度を測る上で重要な指標になります。個人ではありませんが、後漢を建国した光武帝が都を長安から、洛陽に遷都した時、政府関係の蔵書は2000両の車で連なって運ばれたと言われています。
そこには、中華文明の粋が収められていたことでしょう。それにしても、班ゆう、蔡邑、張華と、歴史上の蔵書家には、優れた人物が多いようですね。やはり本を読むのは大事な事なんだなと思いました。本日も三国志の話題をご馳走様・・