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動揺する永安の兵を激励し、呉の猛攻を跳ね返す
しかし、すでに蜀が滅亡した状況で、戦う事に永安の兵は動揺します。ところが、羅憲は、自ら率先して、朽ちた城壁を修理し、古ぼけた鎧を繕い、籠城に必要な兵糧を集めます。そして、自暴自棄に陥る兵士に語りかけました。
羅憲「確かに、すでに我らの主は降伏された。今、呉と戦い手柄を立てても、お前たちは称えられる事はない。だが、長年の盟友関係を反故にして、卑劣にも永安を蹂躙しようという呉の態度に対して、お前たちは人として憤りを持たないのか?
呉の将兵が永安になだれ込み、略奪放火、暴行を繰り返すのをもう、俺達には関係ないと黙って見過ごすのか?
我らは、永安の民を守り繁栄させるべく、何十年も土地を守ってきた。その力を発揮するのは今だ!侵略者を打ち倒し永安を守るのだ」
羅憲の言葉に、永安の将兵は奮い立ちました。そして、やってきた呉の成憲の軍勢を撃退します。
悲報 鄧乂、鐘会死亡、羅憲に更なるピンチが訪れる!
羅憲は、小さな永安城でも、やがて、成都から魏軍が入れば、呉も諦めて、兵を引くだろうと考えていました。しかし、翌年、更なるバッドニュースが成都から届きます。鄧乂が鐘会の讒言により更迭されて途中で殺され、さらに、鐘会は姜維と図りクーデターを起こすも失敗してしまったというのです。
これにより魏も混乱し、成都は真空状態になります。それを知った孫休は、攻略の手を緩めるどころか、さらに、征西軍として歩協(ほきょう)を派兵し、永安城を包囲させます。ですが、羅憲は慌てず、永安の3万の兵を見事に指揮、歩協軍を撃破して包囲を解き、さらに使者を魏に派遣して援軍を請いました。
孫休、名将、陸抗を派遣して永安を再度包囲
孫休は度重なる敗戦に、羅憲が名将である事を認め、本腰を入れます。そして、名将、陸遜(りくそん)の子、陸抗(りくこう)に兵3万を与えて永安を包囲します。
陸抗は、永安の抗戦意識が高い事を見て短期決戦を避け、持久戦に転じました。羅憲は、迂闊に打って出れば、名将、陸抗の思うつぼになると考え不利と知りながら、苦しい籠城戦を戦います。
籠城6カ月、病人は過半数を超えるが・・
陸抗による、永安の包囲は6カ月を超えました。魏の援軍はなかなか来ず、城は兵糧が乏しくなり、また衛生環境の悪化で病気に罹るものが城内の過半数に及びました。そこで、ある人が羅憲に
「密かに城を脱出して直接、魏に援軍を呼び掛けてはどうか?」と進言しました。しかし、羅憲は、それに対して首を振り拒否します。
羅憲「君子というのは、民の尊敬を集める存在でなければいけない・・永安の民衆を救う明確な手立てもないのに城から逃げ、民を捨てさるような行為は古来より君子の道ではない」
永安は陥落寸前に落ち入りますが、天は羅憲を見捨てませんでした。魏の司馬昭(しばしょう)は、羅憲の援軍要請を受け入れ、胡烈(これつ)を援軍に差し向けます。胡烈は、鐘会のクーデターを阻止した人物で、その後も成都に留まっていました。司馬昭は、その胡烈に永安を救援するように命じたのです。
不利を悟った陸抗は、兵をまとめて永安の包囲を解きます。こうして、蜀滅亡後の戦いを戦った羅憲と永安の人々は、呉の侵略を阻止したのです。
晋の建国後、高い地位に登る羅憲
司馬昭は、羅憲の正義を貫き、不義には阿らない態度を高く評価します。そして、羅憲を元通り、永安の城主に据え、淩江(しゅんこう)将軍に任命し、萬年亭侯に封じました。
その後も羅憲は、司馬炎(しばえん)の賢才を挙げよという命令に従い、陳寿を始めとして、常忌(じょうき)、杜軫(としん)、寿良(じゅりょう)、高軌(こうき)、呂雅(りょが)、許国(きょこく)、費恭(ひきょう)、諸葛京(しょかつきょう)、陳裕(ちんゆう)というような蜀の人材を推挙します。彼らは等しく晋の家臣として出世していく事になります。
三国志ライターkawausoの独り言
蜀の滅亡まで戦った武将は大勢いても、蜀の滅亡後まで、領地を守ったのは羅憲くらいしかいないでしょう。まさに、蜀のラストサムライと呼ぶに相応しいです。もう少し生まれるのが早ければ、孔明の腹心として、その軍事的な才能や政治の才を活かせたかも知れません。彼は、黄皓のような佞臣に阻まれ、高い才能を、蜀が存在する間は生かせず、皮肉にも蜀の最後に華を添える形で終わり天下は晋の建国へと移っていく事になります。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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