荊州(けいしゅう)は北と南に広い領土を持った土地です。この地は劉表が長い年月をかけて、州都である襄陽(じょうよう)近辺は、農地を開墾し、学術を広めていき学者が多く集まる場所でした。しかし荊州南部は四つの郡がありましたが、長沙(ちょうさ)を除いた他の三郡は人が少ないことや少数の異民族がいた事から、統治が難しいところでした。
その後曹操の遠征軍に降伏し、荊州は曹操の物になります。そして南荊州には曹操が任命した四人の太守が統治する事になります。今回は歴史のはざまに消えてしまった太守の韓玄を紹介していきたいと思います。
後年活躍する黄忠や魏延を配下にしていた長沙太守・韓玄
韓玄(かんげん)は曹操が荊州を攻略した時に、長沙(ちょうさ)太守に任命します。彼は曹操から長沙太守に任命されるとすぐに任地へ赴きます。
その後土着の有力者を手なずけ、後年蜀の五虎将軍として歴史に名を刻まれることになる猛将・黄忠(こうちゅう)や孔明と仲が悪く蜀に反旗を翻すことになる魏延(ぎえん)を配下に加えます。正史「三国志」ではその後、赤壁の戦いに勝利した劉備軍に降伏しているそうです。その後の彼は記載がないため、何をしたのか分かりません。
三国志演義の韓玄
韓玄は三国志演義の場合だとそれなりに活躍しています。劉備は南荊州を攻略するため関羽へ長沙攻略を命じます。韓玄は劉備軍が長沙へ侵攻してくるとの報告を受けると籠城の準備を行い、黄忠や魏延などの猛将達へ迎撃に出るよう指示を出します。黄忠は迎撃に出ると武勇の誉れ高い関羽と長沙城の門前で、激しい一騎打ちを行います。この時黄忠の馬が躓き、地面に叩きつけられることになります。関羽は黄忠に「じいさん。中々やるではないか。」と言って陣へ戻っていきます。この一騎打ちの後、再び関羽軍は長沙城へ攻撃を仕掛けてきます。この時両者引き分けに終わります。この一騎打ちの後、再び関羽軍が長沙へ攻撃を仕掛けてきます。
この時黄忠は城壁から関羽がかぶっている巾(きん)へ弓矢を放ち、「次に攻めて来たら、おぬしの頭に貫通させるぞ」と大声で叫びます。黄忠が弓矢をわざと外した場面を目撃した韓玄は黄忠を捕縛して、処断しようとします。しかし魏延が民衆を扇動して韓玄を殺害。こうして韓玄を殺害した魏延は城門を開いて関羽に降伏します。
祟り神として、民衆から恐れられる
韓玄は死後長沙に墓が立てられる事になります。現在は中国の長沙にある中学校の近くに残っているそうです。三国時代からはるか後年の時代である清の時代に彼は脚光を浴びることになります。清の文官で汪應銓が書いた「韓玄墓記(かんげんぼき)」によると、清の時代の長沙では、韓玄は祟り神として恐れられており、人を怖がらせたり・危害を加えたりしていたそうです。また三国志演義では韓玄が殺害された後は、長沙城外に手厚く埋葬されているそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
韓玄はほかの南荊州の太守達(劉度(りゅうど)・金旋(きんせん)・趙範(ちょうはん)と共に正史「三国志」にほとんど記述がありません。唯一正確にわかっている事は、この四人が三国志の時代にいた人物であった事や曹操に命じられて南荊州四郡の太守になった事。そして劉備の南荊州攻略軍に降伏した事が現在正確に伝わっている情報です。もし劉備と孫権が赤壁の戦いで敗北していた場合、今回紹介した韓玄の存在は歴史の中にうずもれたまま、日の目を当たることがなかったかもしれません。このように考えると劉備と戦った事や配下に黄忠や魏延などの猛将がいた事で、歴史に名を留めることに成功した人物ではないでしょうか。
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