まったく活躍の場が見られない麋芳(びほう)ですが、兄はあの麋竺(びじく)です。
劉備の入蜀の際には諸葛亮孔明よりも席次が上だったという麋竺。
劉備の配下のなかでも重臣中の重臣といえます。
また、妹の麋夫人も劉備の夫人でした。
麋芳は、ある意味「コネ」によって破格の出世ができたともいえます。
劉備が入蜀した際には麋芳は荊州に残され、
南郡の太守を務め、荊州の総督である関羽の命令下にありました。
士仁(しじん)とは
幽州の出身である士仁は、かねてから劉備に仕えていた古参の将だと思われています。
活躍の場面はまったく描かれていません。
劉備が入蜀した際には荊州に残り、公安城の城代を務めています。
関羽との関係
日ごろから関羽と麋芳・士仁の関係は良くなかったと云われています。
理由はよく伝わってはいません。
しかし関羽の性格を考えると想像ができます。
関羽はかなり頑強な現実主義者です。能力主義者でもあります。
力の有る者は大いに認め、敬いますが、
逆に官位が高くとも能力が低い者に対しては侮蔑することが多かったようです。
仮に麋芳がコネだけの人物であり、士仁が古参であるというだけで重く用いられているようでしたら
関羽はかなりシビアに彼らの言動を見つめていたことでしょう。
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嫌悪感は相手に伝わる
相手に対して好意をもっていればおのずとその気持ちは伝わります。
逆に相手に対して嫌悪感をもっていれば自然とその気持ちも相手に伝わるものです。
麋芳、士仁は関羽が自分たちを軽んじていると感じていたようです。
それが日ごろからの折り合いの悪さに繋がっていったものと考えられます。
関羽の北伐の際の不手際
219年に関羽はいよいよ北上し、魏の樊城を攻めます。
このとき後方支援と呉への警戒を任されたのが南郡太守の麋芳と公安城に入っていた将軍の士仁です。
しかし関羽と彼らの連携は上手くいかず、麋芳や士仁らは兵糧の供給だけに専念し、援軍を出さずに関羽の怒りをかいます。
また麋芳は南郡で出火の不手際をおこしてしまいさらに精神的に追い込まれることになります。
事実、関羽は北伐の最中に麋芳、士仁らを戻り次第に処罰するとうそぶいていたそうです。
日ごろから相性の悪かった関羽と麋芳・士仁の関係は悪循環に陥っていくのです。
呉への降伏
同盟国である呉に裏切られなければ、関羽の快進撃は留まることはなかったでしょう。
実際に魏の名将である于禁や龐徳を倒しています。
曹操も許都の遷都を本気で考えたと云われています。
この関羽の猛進に水を差したのが、味方である麋芳であり士仁でした。
呉の呂蒙の策略に見事にはまり、まず士仁が呉に降伏します。
続いて南郡の麋芳が降伏した士仁の姿を見て同意します。
兵站の道を断たれた関羽はやがて滅亡の道を辿っていくこととなります。
もし、関羽と麋芳・士仁の関係が良好だったら
少なくとも麋芳の早期降伏は防げたはずです。
籠城を続けていれば、関羽からの援軍が間に合っていたかもしれませんし、
蜀からの援軍が到着できていたかもしれません。
しかし関羽に恨みを抱いていた麋芳と士仁はさして抵抗することもなく呉の軍門に降ります。
ここで粘って籠城して抵抗しても、
帰城してきた関羽に処罰されるのであれば抵抗するだけ無駄だと感じたのでしょう。
これは猛将関羽の唯一の落とし穴でした。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
関羽が許都を突いていたら歴史はどう変わったのでしょうか。
益州、荊州を補給地として豫州や司隷に大きな勢力を築けていたのかもしれません。
そうなると曹操の独走を防げたのは間違いないと思います。
北伐の際の馬謖といい、このときの麋芳・士仁といい、蜀は人材不足を否めません。
関羽と部下の間に入ってクッションのような役割を果たせる人材がいればまた話は違ったのではないでしょうか。
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