官渡の戦いは関羽を神にする登竜門だった!三国志演義を新たな視点で解釈

2022年5月25日


 

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中国の伝説では黄河で跳ねた鯉が龍門を通って龍へと変化したと言われています。そこからこの門は鯉躍龍門(リーユエロンメン)(日本で言う登竜門)と呼ばれるようになりました。

 

金色で爪が五本ある竜

 

中国では龍は皇帝の象徴であり、始皇帝(しこうてい)は神話世界における神を凌駕する上位の存在として皇帝という称号を用いました。つまり、龍と神はイコールであるということです。

 

関帝廟で関羽と一緒に祀られる周倉

 

関羽(かんう)は死後に神様として祀られるようになりましたが、三国志演義(さんごくしえんぎ)にある官渡(かんと)の戦いのストーリーは、関羽を神にするための登竜門であり、そのためにオリジナルのストーリーが創作されたとも考えられます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志演義と関羽の神号

大きすぎる関羽像

 

関羽は260年に劉禅(りゅうぜん)が行って以来、宋代、元代、明代、清代と各時代で(おくりな)が追贈されてきました。その中で、明代末期に万暦帝(ばんれきてい)から「協天護國忠義大帝」という神号を初めて贈られています。

 

神様になった関羽(関帝廟ver1)

 

それまでも関羽は軍事の神様や財神として祀られてきましたが、正式に国が神として祀ったのはこの時が初めてです。三国志演義が編纂(へんさん)されたのは元代から明代初めと言われているので、演義のストーリーが元となって関羽に神号が送られた可能性もあります。

 

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関帝廟

 

 

 

官渡の戦いは関羽の登竜門

京劇の関羽

 

「協天護國忠義大帝」という神号ですが、これは読んで字の如く忠義報国の神様です。加えて国を守るという点で軍事に関連しているとも言えるでしょう。関羽と忠義、軍神を結びつけるエピソードが演義の官渡の戦いには盛り込まれています。

 

顔良と関羽

 

それが顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)を討った話と、劉備(りゅうび)のもとへと帰る際に5つの関所を破った話です。

 

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軍事の象徴

曹操から赤兎馬をプレゼントされる関羽

 

曹操(そうそう)下邳(かひ)の戦いで投降した関羽に対し、呂布(りょふ)の愛馬であった赤兎(せきと)を贈っています。これによって呂布の最強という称号が関羽に渡ったと考えられます。

 

赤兎馬を乗り回す関羽

 

実際、赤兎馬に跨った関羽は白馬(はくば)の戦いにおいて顔良と文醜を屠り、敵味方にその名を知らしめました。正史ではどの程度強かったのか分からない顔良と文醜ですが、演義では袁紹軍の中でも最強クラスの猛将として描かれています。

 

文醜と顔良

 

まず反董卓(とうたく)連合軍が結成され、汜水関(しすいかん)で華雄が連合軍の武将を次々と討ち取った際、袁紹は「顔良と文醜がいれば」と漏らしています。これは顔良と文醜が華雄を打ち取れるだけの強さを持っていると強調するエピソードです。

 

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

さらに顔良は白馬の戦いで曹操軍の宗憲(そうけん)魏続(ぎぞく)を討ち、徐晃(じょこう)を退けていますし、文醜も張遼と徐晃が二人がかりで挑みますが勝てませんでした。そんな二人を関羽は易易と討ち取っています。これによって関羽の武力が呂布に次ぐ、もしくは同等であると印象付けています。

 

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馬が動かした中国史

 

 

 

忠義の象徴

関羽が大好きすぎる曹操

 

下邳で破れた関羽は劉備の奥方を守るために曹操へと降っています。曹操は様々な贈り物をして関羽を懐柔しようとしますが、いずれも失敗。

 

関羽千里行

 

関羽は曹操の恩義に報いながらも劉備の行方を探し続けます。そして劉備の消息をつかむとすぐさま曹操の元を離れ、かつての君主のもとへと馳せ参じました。その際に5つの関所を破っていますが、これこそが関羽にとっての登竜門だったと考えられます。

 

五関六将破りを行う関羽

 

これらの関所は黄河沿いに配置されていて、それらを突破していく様はまさに冒頭の鯉が黄河の龍門を通った話と類似しています。つまり、全ての関所を抜けた関羽は忠義の神様になったという裏の意味があったということです。しかし、まだ関羽は神様として完成したわけではありませんでした。

 

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関羽

 

 

官渡の戦い以降の関羽

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

官渡の戦い以降で次に関羽がピックアップされるのは、赤壁(せきへき)の戦いで敗走した曹操と関羽が華容道(かようどう)で再び相まみえる場面です。この時の関羽は曹操に対する恩義と劉備への忠義の板挟みに合い、結果的に曹操への恩義を選択しました。

 

北方謙三 ハードボイルドな関羽

 

この選択によって関羽は真に忠義の化身となったと言えます。

 

曹操は関羽を生かし、劉備への忠義に報いることを許しました。それがきっかけとなり、関羽は関所という名の登竜門を抜けることになります。しかし、曹操が関羽に与えた慈悲が棘となり、関羽を不完全なままに留めていました。その慈悲を華容道で曹操自身に返すことによって画竜点睛(がりょうてんせい)となり、忠義の神である関羽が誕生したということです。

 

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赤壁の戦い

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

演義のストーリー構成は何の意図もなく作られたものではないでしょう。仮に民間伝承を反映したものであれば、関羽は民意によって神様になったと言えます。

 

喧嘩ばかりする張飛と関羽

 

ただ、張飛(ちょうひ)は関羽と実力がほぼ同じで、最初から最後まで劉備に仕えました。加えて、関羽が神格化される以前は張飛の方が民間における人気が高かったと言います。二人の大きな違いは国のために最後まで戦ったか、部下に裏切られて暗殺されたかという点だけです。

 

関帝廟と関羽

 

そう考えると時の王朝の意向によって関羽神格化の流れは生まれたのかもしれません。

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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