毎日、毎日、難しい本を読み、高尚な議論を戦わせている学者先生。
彼等はさぞかし、日頃から品行方正で優等生なのだと思いきや、、
「バカと天才紙一重」の諺の通り、頭が良すぎて人生をどうかしてしまう
人々も多いのです。そこで今回、はじさんでは日中、変人学者対決と銘打って、
三国志随一の変人学者、孔融(こうゆう)とテレビでは放送できない性癖を持つ、
日本の平安末期の奇人、藤原頼長(ふじわらの・よりなが)を比べてみます。
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この記事の目次
孔子から数えて二十世の屁理屈大魔王 孔融
孔融は、儒教の創始者である孔子の二十世の孫です。
最初は後漢王朝に仕え、それから献帝を擁した曹操(そうそう)に仕えますが、
直言をよしとしたので、次第に曹操に嫌われていく事になります。
有り余る漢文の素養を駆使して放たれる曹操への諫言は、
まさに屁理屈の嵐、ああ言えば孔融を地で行きました。
それでも、大学者ですから、曹操も家臣達も言葉では誰も言い負かせないので、
孔融の言いたい放題の独壇場です。
まあ、孔融は正しい事を言っている事もあるのですが、
普通人はわきまえている上役への遠慮や空気を読むという事が出来ない為に、
ついに最後には曹操に処刑されるという悲惨な運命を辿ります。
もれなく朝廷の人々から嫌われた悪左府(あくさふ) 藤原頼長
藤原頼長は平安末期の貴族で、藤原氏でなければ人間ではないという程に
栄華を極めた事で有名な藤原道長(みちなが)から数えて五代目です。
もちろん、頼長も当時の藤原摂関(せっかん)家として超エリートでした。
※摂関家とは、代々摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)という
最高職を出す家柄の事、袁術、袁紹のような四世三公に近い感覚
さらに頼長は、日本に並ぶ者が無いほどの博識の学者であり、
自分用の図書館があるという程の蔵書家、彼の甥にあたる慈円(じえん)が
「日本一の大学生(しょう)和漢の才に富む」と愚管抄(ぐかんしょう)に書いています。
しかし、この頼長、31歳で左大臣・内覧(ないらん)となり
政治の実権を握ると、妥協も譲歩の欠片もない、強権政治を行っていきます。
頼長は真面目でしたが、目指す政治が儒教と律令を根底としたので、
その当時の世相に合わず、政治には混乱が発生しました。
他人の機嫌取りをしない頼長は朝廷の下級貴族から嫌われ、
それが次第に上の方に広がり孤立し「悪左府(悪の左大臣)」と呼ばれるようになります。
最後には職を追われ、反乱を起こす羽目になり敗れて37歳で戦死します。
儒教の徒なのに儒教を批判、孔融の破天荒な性格
孔融は、孔子の二十世の子孫ですが、非常に型破りな人物であり、
儒教の型にハマった嘘臭い親孝行に懐疑的でした。
彼は、親友の禰衡(でいこう)と親孝行について議論をし、
そもそも親というのは、子供が欲しくて産んだのではなく、
ウヒョ!の副産物として子供が出来る。
だから、子供としては少しも親に感謝する必要はないと言ったり、
子宮というのは、容物であって、子供が生まれてきて、
別々になれば、もはや、何の縁も無い個々の存在だ。
などと言い、母子の縁というものにも懐疑的な態度を取っています。
しまいには、
「親がアホだったら飢饉でも、食べ物を捜して与える義理はない
もっと有能なヤツに与えた方が世の為だ」
などと身も蓋もない事を言っていました。
これは儒教が全盛の時代、言ってはいけないタブーだったのです。
それを孔子の子孫が言ってしまうという所が孔融の真骨頂でした。
気に入らないヤツに天誅!遅刻犯の家は燃やす 藤原頼長
一方の悪左府、頼長にも信じられない強烈な性格がありました。
彼は思い込みが激しく、嫉妬深く、完璧主義者でした。
しかも、その完璧を他人にも要求するから性質が悪かったのです。
ある時、頼長の部下が定刻に遅れて出勤してきました。
これを怒った頼長は、部下の侍達を派遣して部下の家に火を放ち、
それを燃やしてしまったと言います。
たかだが、遅刻で家を燃やされたんじゃあ、たまらないですよね。
別の時には、太政官を殺害した犯人が恩赦で釈放される事になりましたが、
犯人を許せなかった頼長は、密かにBL仲間で腹心の秦公春(はたの・きみはる)に、
これを襲わせ殺害、そして日記に「天に代わってこれを誅するなり」と書きました。
まるで必殺仕事人ですが、頼長は、こういう常識外れの苛烈な性格であり
それにより、ますます嫌われるという悪循環に陥ったのです。
類は友を呼ぶ、つき合う相手は変人揃いの孔融
孔融は、面と向かっては、相手の短所を言い相手の居ない所では、
相手の長所を他人に吹聴して褒めるという変な性格でした。
また、天下に人物がいて推挙しないのは自分の過ちと思う程に人材の登用に
熱心でしたが、彼がタメ口を許す程に評価したのは、あの全裸男の禰衡でした。
※禰衡って誰?詳しくはこちら↓
禰衡は、孔融よりも20歳は下でしたが、孔融は自分を汝(うぬ)と呼ばせ、
お互いに汝と言いあっていたと言います。
ただし、天下一の悪口屋で知られた禰衡を評価する人は孔融くらいしか無く
曹操も一度は登用したものの、悪口に耐えられず劉表(りゅうひょう)の下へ
強制送還してしまっています。
この辺りは、類は友を呼ぶを地で行ったと言えるでしょうか。
どうして書く? 台記に赤裸々に書かれた頼長のBL遍歴
藤原頼長が、特に異彩を放つのは彼が男色の道に熱心な
今風に言うとBL男子(そんな言葉ねえよ)だったからです。
どうして、それが分るのかというと頼長は、十数年に渡り台記(だいき)という
日記をこまめに書いていて、そこに男色の事が書かれているからです。
え?なんで日記にそんな事書くのかって?分かりません、
そこが天下の大学生、藤原頼長の頼長たるゆえんなんでしょう。
そのBL相手というのが、一人や二人ではありませんで、、
腹心の秦公春、秦兼任(かねとう)、藤原忠雅(ただまさ)、藤原為通(ためみち)
藤原公能(きんよし)、藤原隆季(たかすえ)、藤原家明(いえあき)、
藤原成親(なりちか)源成雅(なりまさ)と合計9名。
さらに一回きりの相手を入れると人数は増え、
当時はワイルドで卑しい存在だった新興の武士にも手を出し、
源義仲の父である源義賢(よしかた)もその相手だったという、
源平ファンにはAHHEEEEEEEYY!な事実もあります。
そして腹心であり、一番のお気にいりの秦公春が糖尿病で若くして死ぬと、
頼長は傷心から3か月に渡り公務を無断で休み、その評判を下げたそうです。
おい頼長!自他共に仕事に厳しいんじゃなかったのか?
三国志ライターkawausoの独り言
今回は、いつもと趣を変えて、平安時代の日本人と三国志の人物を比較してみました。
没個性な人が多いと言われる日本ですが、歴史をたどれば、そんなことは無く、
奇人変人の類でも、中国に対抗できる人物がいるという事が分ってもらえたと思います。
本日も三国志の話題をご馳走
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—