三国志演義では、よく描かれる宴会の風景、しかし、そこで使用される
食器・調理用具の類までは、細かく説明される事はまずありません。
しかし、他所で説明されないなら、こちらで説明してみせようというのが
はじさん魂!というわけで周の時代から唐の時代まで使用された、
様々な食器についてイラスト付きで解説します。
この記事の目次
一番、有名な調理器具、鼎(かなえ)
鼎は、「鼎の軽重を問う」など、珍重され過ぎて最後には
国家を指し示すまでになった調理用具です。
元々、鼎は、脚の下から火を焚いて、肉や魚などを煮込む鍋でした。
中国では大牢と呼ばれる、最高のご馳走三種、牛、豚、羊の肉も
鼎で煮込むので、やがて、権力と富の象徴として神聖視されるようになりました。
また、鼎は青銅という錫と銅の合金で鉄よりも高価でした。
重い物では1トン近くあるなど簡単に動かせない代物で、
その為に鍋の淵に耳がついています。
かつてはここに棒を差し込んで、大勢で担いで動かした名残です。
果物などを盛ったのか?籩(へん)
鼎とは対照的に、竹を編んで造られたのが籩です。
竹製品という事から考えて、生臭い物は腐ってしまうので入れられません。
恐らく乾いた食品や、果物などを盛るのに利用されたと考えられます。
土台が膨らんでいるので、個体では重い食品が盛られたと考えられ、
やはり果物が多かったように思います。
豆と書いて、たかつきと読む!
豆は、一本足で蓋がついた木製の食器です。
蓋があるという事は、羹(あつもの:スープ)を入れたという事で、
案の定、付属品として匕(ひ:スプーン)がセットされています。
昔は、年齢によって豆を出す数が決まっていたようで、
年長者には、より多くの豆が出され尊敬を表しました。
今でいう、お櫃(ひつ)だった箪(はこ)
こちらも竹製品ですが、籩よりはずっとコンパクトです。
この中には粟や黍、米のような主食が入っていました。
孔子の言葉にも、一箪の飯、一瓢の水という言葉があり、
箪の中には飯が入っていた事が窺えます。
今の感覚だと、竹の表面に飯がひっつきそうですが、
当時は穀物を炊かずに蒸していて水分が多くないので、
べったりとはくっつかなかったと思います。
※文字の制約で、箪としか出ませんが、実際は竹の下に□□が入ります。
瓦で出来た食器、鉶(けい)
今までの食器に比べて、角はあるわ、脚はあるわの
奇抜なデザインが、この鉶という食器の特徴です。
瓦製という事ですから、耐火性があるので熱く煮えた肉などを
入れていたのではないかと思います。
鼎と同じく、奇抜な文様が刻んである事から高貴な食器であり、
料理人は、鼎で煮た熱々の肉を切り分けそれぞれの客の鉶に
分けていたのかも知れません。
もっとも粗末な食器 瓢(ひさご)
瓢は、ひょうたんの中身を取り去って造った簡単な食器です。
もっとも貧しい人間の食卓にもあがるので、
一番ランクの低い食器として扱われていました。
瓢は半分に割らないで瓢箪として天然の水筒にしたり、
酒を入れたりもしています。
カンフー映画の酔拳を見れば、瓢が出てくるのが分かります。
昔懐かしい、お膳にあたる案(あん)
案は、日本でも少し前までは存在した膳の事です。
どうして、こんなものがあるのかと言うと、
当時は椅子もテーブルもなく、食事は案に乗せられて、
運ばれてきたからです。
イラストでは、大きさは分かりませんが、高さは座った人の
腰程度しかなく、座って食事をするのに便利な造りです。
案は宋の時代に入り、生活が椅子とテーブルの生活になると
廃れて消えていきました。
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三国志ライターkawausoの独り言
周の時代から連綿と続いた、鼎や豆、鉶、籩という食器は、
中国が椅子とテーブルの時代になる遅くとも北宋の頃から、
生活に合わなくなり廃れていくようになります。
しかし、三国志の時代なら、ズバリで存在していた筈で、
このような食器や調理器具に囲まれて食事をしていたのです。
これらとは別に、お酒を注いだ甕、玉觶(ぎょくし)や龍を象った
尖った酒杯、觥(こう)などがありますが、食器ではないので、
これらは日を改めて紹介しましょう。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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