黒田官兵衛は牢屋に閉じ込められた時に何で自殺しなかったの?

2016年12月22日


 

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黒田官兵衛

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍師としてその智謀を讃えられた黒田官兵衛(くろだかんべえ)。しかし彼はある外交に失敗した事がきっかけで牢屋へぶち込まれてしまいます。

 

荒木村重

 

その外交交渉とは荒木村重(あらきむらしげ)の説得交渉です。荒木村重はいきなり織田信長(おだのぶなが)に謀反することになります。

 

織田信長を裏切り謀反を起こす荒木村重

 

信長は村重が謀反した理由が全く不明であったため、明智光秀などの諸将へ説得するように命令を出しますが、失敗に終わってしまいます。荒木村重謀反で混乱する織田家の最後の希望として、黒田官兵衛が村重説得に赴くことになります。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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官兵衛はなぜ荒木村重説得に趣いたのか

荒木村重を説得しに行く黒田官兵衛
織田家内部の揉め事なのになぜ官兵衛は荒木村重を説得に行かなければならないのでしょうか。その原因は官兵衛が仕えていた小寺家にあります。官兵衛の主君は村重が謀反した時は、秀吉ではなく小寺政職(こでらまさもと)でした。

 

官兵衛は主君である政職を織田家へ味方するように説得したことによって、秀吉が中国地方へきた際に官兵衛は秀吉の部下として働く事になるのです。官兵衛は秀吉の部下でありながら小寺家の家臣として働いておりましたが、政職は官兵衛から織田家へ味方するようにと説得を受けた時は、織田家へ味方することを快諾。

 

しかし、官兵衛が政職の側へくる暇がないほど忙しくしている間に、側近達から「毛利へ味方したほうがいいのではないのでしょうか」と何回も進言を受けます。この結果彼も毛利へ味方したほうが良かったと後悔するようになります。

 

だが毛利へ味方するには織田家へ味方するように進言した官兵衛が邪魔でしたが、官兵衛を殺害した場合、官兵衛の父である黒田職隆(くろだもとたか)が軍勢を率いて小寺家へ攻撃を仕掛けてくるかもしれないと考えていたため、迂闊に官兵衛の殺害が出来ない状態でした。だが最大のチャンスがやってきます。

 

それは荒木村重謀反です。官兵衛が小寺家の本拠地である御着城(ごちゃくじょう)へやってきた際に、政職は「我は織田を捨てて、毛利へ味方しようと考えている」と意見を述べます。

 

すると官兵衛は織田と毛利の状況を比較し、織田の方が優れていることを淡々と述べて最後に、「毛利よりも織田を頼るべきです。」と言って言葉を締ます。官兵衛の話を聞いた政職は官兵衛にある条件を突きつけます。

 

その条件は「お主の意見はわかった。最近信長に謀反した荒木村重を説得してこい。もし村重が織田家へ帰ってきたらお主の言うことを聞いて織田家に味方する」と伝えます。官兵衛はこのような経緯から荒木村重の説得へ赴くことになるのです。

 

荒木村重に会えずに牢屋へぶち込まれる

荒木村重を説得しに行くも牢獄に入れられる黒田官兵衛

 

官兵衛は村重の居城である有岡城(ありおかじょう)へ到着。村重には事前に「会って話がしたい」と言っていたので、すんなりと有岡城へ入城することができましたが、入城した途端に捕らえられてしまいます。そして官兵衛は有岡城の牢屋へブチ込まれることになるのです。

 

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地獄の牢屋生活

 

官兵衛は有岡城の地下にある牢屋へブチ込まれることになります。この牢獄がいかに地獄なような場所で合ったかを記した書物がありました。その書物は司馬遼太郎氏が黒田官兵衛を描いた「播磨灘物語(はりまなだものがたり)」です。

 

この本の中で司馬氏は官兵衛が牢獄に入れられている情景を描いており、引用すると-寝るときもエビのように体を縮めなければならない。ジメジメした牢獄で、シラミや蚊に攻められ、最低限の食と処理がままならない糞尿に苦しみながらとあります。

 

レンは警察に捕まって留置場などに入れられたことがないので分かりませんが、上記の引用部分で一応牢獄の雰囲気がわかっていただけるのではないかと思います。普通の人間なら発狂して自殺してもおかしくない環境だと思います。このような地獄の生活の中でなぜ官兵衛は自殺をしなかったのでしょうか。

 

官兵衛が自殺しなかったのは自らの行いに信念があったから

黒田官兵衛

 

官兵衛は上記のような牢獄生活を一年ほど続けなくてはなりませんでした。このような地獄のような生活をすぐに脱出する方法がありました。それは村重に降伏する事です。

 

村重に降伏することを申し入れればすぐに牢獄生活にピリオードを打つことができたでしょう。にも関わらず一年も官兵衛が牢獄生活を行った理由としては「信念」があったからではないのでしょうか。

 

官兵衛は織田家に味方すれば小寺家・黒田家は保全されると信じて織田信長へ味方するように主君を説いて実行に移します。もし彼が荒木村重に降伏してしまえば信長に敵対することになり、官兵衛が行った外交政策は官兵衛自身が否定することになります。

 

そのため彼は自己の信念で行った外交政策が間違えではなかったことを証明するためにも、村重に降伏すること選びませんでした。また官兵衛が自害の道を選ばなかったのも自己の信念に反するからではないのでしょうか。自害してしまえば官兵衛が行ったことは間違えであったと示すようなものですから・・・・。

 

戦国史ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

官兵衛が自殺しなかった理由としては牢屋の番人のおかげかもしれません。官兵衛が牢屋にぶち込まれたとき交代で官兵衛の牢番をしていたのですが、ある牢番が官兵衛へ優しく接してくれました。

 

官兵衛はこの牢番の親切に報いるために牢番へ「もし私がこの牢屋を抜け出して帰国することができたなら、あなたの息子を一人あずけてはいただけないでしょうか。必ず取り立ててあげます。」と約束します。この約束があったからこそ官兵衛は意地でも死ぬわけには行かないと自らを励まし続けていたのかもしれませんね。

 

参考文献 幻冬舎 日本に今一番必要な男黒田官兵衛 原口泉著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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