キングダムで絶賛活躍中の武将である王賁(おうほん)。
彼は秦の始皇帝の天下統一事業で大いに活躍します。
彼が亡くなった後、息子である王離(おうり)は
楚漢戦争で名将・章邯(しょうかん)に付き従って活躍しますが、
項羽軍に敗北した時に捕虜になってしまいます。
王離はそのまま史記では記述がなくなってしまいますが、
彼の息子達は琅邪と太原に住み付くことになります。
太原王氏は三国志の時代に活躍した王允と王凌が有名ですが、
琅邪王氏は一体どのような人物を輩出したのでしょうか。
今回は琅邪王氏が輩出した三国時代の人物にスポットライトを当てて見たいと思います。
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三国志に出現した孝行者・王祥(おうしょう)
王賁の血が流れている琅邪王氏も三国志の時代に活躍しておりました。
その名を王祥(おうしょう)と言い、後漢末の黄巾の乱が発生した時に誕生します。
彼は後漢王朝が腐っていたことに憤慨して、
後漢王朝の官職に就くことなく家で過ごしておりました。
だが彼の名前は家に過ごしていたにも関わらず、
孝行者として天下にその名が響き渡ることになります。
継母に仕えた孝行者
王祥は母が早くに亡くなってしまい継母と一緒に暮らしておりました。
しかしこの継母は王祥が無茶苦茶嫌いで、彼に色々と無茶なことばかりを言いつけます。
あるエピソードとして王祥が継母から「この家にあるすももの木をしっかりと見張るのですよ」と
命じられます。
このため王祥は継母の言われるとおり、雨の日も風の日もすももの木を見張っていたそうです。
また彼女は自らの息子である王覧をすごく可愛がっており、
王祥が孝行者としてその名が有名になっていくことを苦々しく思っておりました。
そこで彼女は彼が寝ている間に殺害してしまおうと考え、
彼の寝室に入って刀で彼の布団に斬りつけます。
しかし彼はたまたま布団の中にいなかったため命からがら助かりますが、
寝室に入ってボロボロの布団を見るとすぐに継母の元へ言って
「私に母上を苛立たせる落ち度があったのでしょう。
どうか私を殺してそのいらだちをおさめてください。」と言ったそうです。
この言葉を聞いた継母は彼に対しての態度を改めたそうです。
このように継母にしっかりと仕えていた王祥ですが、
彼女が亡くなると彼女が生きていた当時から何度も仕官について要請があったため、
ついに彼も致し方なく、仕官することに決めます。
この時彼は60を過ぎていたそうです。
司馬家に仕えて三公の位にまで登る
王祥が魏に仕えた時、魏は司馬家が政権を握っている時代で、
魏の皇帝は司馬家の傀儡状態でした。
その後、司馬炎(しばえん)が魏の皇帝から禅譲を受けて晋の皇帝に即位します。
王祥はこの間高齢でありながらも自らの前半生で培ってきた孝の高さと事務処理能力の高さが
認められて魏の滅亡寸前に三公の位に就任します。
その後司馬炎が成立させた晋の時代には
三公の上にある名誉職・太保(たいほ)の官職を得るほど重用されたそうです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
三国時代きっての琅邪王氏の出世頭・王祥。
しかし彼の死後一気に家運は衰えてしまい、彼の一族は歴史から姿を消してしまいます。
では琅邪王氏の血族はここで歴史の中からいなくなってしまうのでしょうか。
そうではありませんでした。
琅邪王氏の一族は王祥をいじめ抜いた継母の息子・王覧の一族が担っていくことになるのです。
王賁は武将として鮮やかな活躍を史記に記録されて歴史にその名をとどめることになるのですが、
彼の血族は文官として歴史に名をとどめており、
キングダムの王賁一族がしっかりと歴史に参加している事を知ると
キングダム好きの皆様も春秋戦国時代以外の歴史にも
興味を持つことができるのではないのでしょうか。
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