【キングダム ネタバレ注意】秦・中華統一後、王賁(おうほん)は今後どうなる?

2015年7月26日


 

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王賁

 

キングダムでは、奴隷の出でギラギラした育ちの悪い主人公信に対して、

毛並みのよい貴族のいけすかない青年として登場する王賁(おうほん)

 

今は、何かにつけて張り合っている二人ですが、王賁は歴史的には

どうなっていくのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名門王家の出身として王翦の子として産まれる

王賁

 

王賁は、秦でも屈指の名将と言われる王翦(おうせん)の息子です。

 

年齢は不詳ですが、紀元前226年父の王翦が老齢を理由に引退

という記述があるので、大体、秦王政と同年代と考えられます。

 

王賁が史書に名前が出て来るのが紀元前226年で、

その年は始皇帝(しこうてい)の21年です。

始皇帝は13歳で即位して、それが始皇帝元年という事ですから

始皇帝21年には、始皇帝は34歳という事になります。

王賁も同年代だと30代前半と考えられるでしょう。

 

すると、王翦は20歳程プラスして54歳、

当時としては老齢ですので大体、その位の年齢ではないかと思います。

 



王賁、父、王翦、ライバル信と共に燕を討つ

王翦

 

紀元前226年、(始皇帝21年)父の王翦と共に6国の一つである

燕を攻めて燕都の薊(けい)を陥落させ、燕王喜(き)を遼東に逃亡させます。

 

これが初陣という訳ではないのでしょうが、これが歴史書に現れる

王賁の戦歴の最初という事になります。

この時、キングダムの主人公である信が遼東に逃亡した燕王喜の

太子である丹の首を取っています。

 

漫画ではいがみ合う事が多い二人ですが、これから仲良くなるのか?

この年、王翦は息子の手腕に安堵したのか前線を退きます。

 

王賁、単独で魏を攻めて滅ぼす!

 

翌年には単独で魏を攻めて、黄河の水を魏の都の大梁にひいて

水攻めし魏王を降伏させて魏を滅ぼしています。

 

さらに三年後には、燕王喜が遼東で再起したのでこれを討伐して捕え、

さらに、代の地で趙王の一族が王を名乗っていたのを撃破したとあります。

 

短期間で各王国を滅ぼす大活躍を王賁は繰り返しています。

 

父王翦が、信の大敗により前線に復帰する!

信 キングダム

 

紀元前224年、秦王政は楚を討伐しようと考えて一度は引退した

王翦を召しだし、いくら軍がいるかを問います。

 

それに王賁は60万と答え、一方で王賁の同僚の李信は、

20万で充分と回答しました。

 

秦王政は、王翦を老いたと考え、李信に20万の軍勢を与えて、

楚を討伐させますが、楚の名将、項燕(こうえん)に破られて、

20万の軍勢は全滅、逆に秦の国境まで攻め上られます。

 

秦王政は真っ青になり、王翦を呼びだして60万の軍勢を与え迎撃を命じます。

王翦は蒙恬(もうてん)の父の蒙武(もうぶ)を副将にして

楚に対しては撃って出ずに頑強に城塞に籠って項燕の猛攻を防いでいます。

 

蒙武も突貫力随一のキングダムの猛将キャラですが、実際の史料には

楚との戦いに出た程度で、二行位しか記述がありません(笑)

 

そして、攻城に疲れ果てた項燕が退却を始めると
反対に追撃に出て項燕を破り自害させます。

 

さらに王翦は勢いに乗って、楚まで攻めこみ楚王を殺します。

 

この時に王賁が従軍していたかは分かりませんが、

秦にいたのなら猛将項燕を破る老練な父、王翦を見ている事になります。

 

何故か許された李信と蒙恬と共に斉を滅ぼし天下を統一

キングダム 始皇帝

 

紀元前221年、王賁は何故か、楚における敗北を問われなかった

李信と、同じく名門出身の蒙恬(もうてん)と共に大軍を持って燕から南下し

斉の都、臨淄(りんし)を包囲します。

 

期せずして、李信、蒙恬、王賁の揃い踏みになった訳ですが、

他に援軍など来るわけもない斉王の健は、秦に降伏ここで秦は、

戦国七雄の頂点に立ち、天下を統一します。

 

王賁は秦の天下統一後どうなったのか?

 

天下統一後、王賁は功績で通武候に封じられたとあります。

候は領地持ちの貴族なので将軍が望める地位としては最大の出世です。

 

彼には、王離(おうり)という勇猛な息子がいて、

始皇帝没後に起きた、反秦連合軍と激戦を繰り広げています。

 

そこから考えると王賁は、始皇帝の死後に吹き荒れた

宦官の趙高(ちょうこう)による

凄まじい粛清の嵐からは逃れられたようです。

 

そうでないなら、息子の王離が秦の将軍として戦っている道理が

通らなくなりますからね。

 

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王賁の末裔は曹操に仕えていた!

現実主義曹操

 

王離の子孫は、混乱する秦を逃れて、山東に住みつきます。

そして、曹操(そうそう)の興した魏の時代、王雄(おうゆう)が

魏将孟達(もうたつ)の推挙を受けて幽州の刺史になります。

 

この孟達は、あの関羽を見殺しにして魏に下った孟達です。

 

西暦235年、度々、魏に背いていたトルコ系鮮卑の

軻比能(かびのう)に対して勅命で部下の韓龍(かんりゅう)を

派遣してこれを殺害しています。

 

軻比能は遊牧民の鮮卑族の話題でも出ましたが、

これで三国志、遊牧民、キングダムのコラボになります(笑)

 

こうして見ると、キングダムの世界も、三国志も、

どこかで繋がっているんですね。

 

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