戦国を代表する武将といえば織田信長(おだのぶなが)が選ばれると思います。彼は当時の戦国大名の中でも突出した考えの持ち主でした。楽市楽座(らくいちらくざ)、兵制の革新(鉄砲重視の部隊編成、他国よりも長い槍を製造したことなど)など他の戦国武将の考えが及ばない領域を改革して、他の戦国大名よりも一歩も二歩も飛び抜け、時代を先駆けていきます。
また彼の美的センスも他の戦国大名や現代人でもちょっとこの人おかしいのではと思うような美的センスを持っておりました。それは子供につけた名前(幼名)です。現代の人も結婚して子供が誕生したら子供に愛情を込めて、色々な名前をつけたりします。だが戦国時代の覇者たる地位を手に入れることになる信長の息子達の幼名は、かわいそうになるぐらいヘンテコな名前を付けられております。今回は信長に付けられた息子達のヘンテコな幼名をご紹介しましょう。
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この記事の目次
信長の息子の幼名が変!!その1:織田信忠の場合
織田信長の嫡男で時期織田家の当主に就任するはずであった嫡男・信忠(のぶただ)。彼は本能寺の変で明智軍と激闘を行い討ち死にしてしまう人物です。そんな彼の幼名は奇妙丸(きみょうまる)です。なぜ奇妙丸なのか。それは信長が信忠が生まれた時に顔がちょっと奇妙な形をしていたことからこの名前をつけたそうです。信忠が可哀想です。
信長の息子の幼名が変!!その2:織田信孝の場合
信長の三男で信長死後秀吉と争った織田家三男の織田信孝(おだのぶたか)。彼の幼名も嫡男信忠と同じようにかなり変です。信孝の幼名は三七(さんしち)です。信長さーん。なぜこの子を三七って幼名を名づけたのか教えてくださーい!!
信長の息子の幼名が変!!その2:織田秀勝の場合
信長の四男として誕生した織田秀勝(おだひでかつ)。彼は信長の元から当時子供ができなかった羽柴家へ養子に出され、羽柴秀勝として姓を変更することになります。この羽柴秀勝の幼名は於次丸です。於次ってかなりへんじゃないですか。信忠の次に誕生したのであれば於次でも理由が明確なので命名してなんとか不思議ではないように思えます。しかし四男に於次って信長がどんな思いでこの名前を命名したのか教えて欲しいです。
信長の息子の幼名が変!!その3:織田信貞の場合
織田信長の9男として誕生した織田信貞(おだのぶさだ)。彼は本能寺で信長が亡くなった後、豊臣秀吉に仕えたそうです。その後関ヶ原の戦いで西軍に味方して伏見城攻略戦などで活躍したそうですが、西軍が敗北してしまったため所領を没収されてしまった人物です。そんな彼の幼名ですが、一番変だろうと思います。彼の幼名は人間です。え!?自分の息子に人間って有り得なくないですか。確かに人間ですけども余りにもひどいように思えます。信長様は自分の息子にあまり興味がないように思えてなりません。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は信長の息子達の幼名についてご紹介させていただきました。信長は息子達に興味がないようにしか思えない幼名の付け方だと思いませんか。一応信長様は嫡男信忠、次男信雄(のぶかつ)、三男信孝には目をかけていたそうです。
それ以外はあんまり興味がなかったのか、もしくは天下統一へ向けての事業に忙しくて構ってられなかったのか。こればっかりは信長になってみないとわかりません。皆さんがもし結婚して子供が生まれても信長のようにヘンテコな名前を付けることだけは絶対にしないでください。信長のようにヘンテコな名前を子供達に付けたら、非常にかわいそうです。
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