蒙武(もうぶ)は、漫画キングダムでは、武の体現者と言える存在です。
親友の昌平(しょうへい)君からは、武をもって策を破る人物と称されるように、
どんなに緻密な陣でも怯む事なく突進して最期には撃ち砕いてしまいます。
楚の筋肉バカ、汗明(かんめい)相手には、腕をへし折られてからファイトに火がつき
これを撃殺してしまうなど、死ぬ寸前になると戦闘力が一気にあがる
サ○ヤ人的なあり得ないパワーを発揮しました。
一方では龐煖(ほうけん)のようなバーサーカー状態の人ではなく、
ちゃんと軍の指揮官としての自身を把握していて、新規の兵ばかりの自軍に
実戦で徐々に自信をつけさせるなど用兵家としての一面も兼ね備えています。
では、そんな蒙武は史実ではどのような武将なのでしょうか?
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この記事の目次
歴史に出てくる時は王翦とセットな蒙武
漫画では、かなり初期から出てくる蒙武ですが、史実ではデビューは遅いです。
紀元前224年と言いますから、中華統一3年前に蒙武は王翦(おうせん)の副官として
李信(りしん)と蒙恬(もうてん)を撃破して、秦の函谷関まで攻め込んだ
楚の項燕(こうえん)討伐の為に出陣しています。
秦は60万の大軍を率いて楚を蹂躙しつつ進んだので、項燕は勝てず自殺しました。
翌、紀元前223年には、蒙武は再び王翦の副官として出陣して、
楚を攻め楚王の負芻(ふすう)を捕えて楚を滅ぼしました。
たったこれだけの記述なんですが、いずれの戦場でも王翦の副官です。
元々、王翦の下で手柄を挙げていた将軍なんでしょうか?
キングダムでの孤高の一匹狼なイメージとは大分違いますね。
始皇帝本紀には異説がある
一方で始皇帝本紀には違う記述が存在します。
違うと言っても、めちゃくちゃ違うわけではないのですが紹介します。
紀元前223年、秦王政は再び王翦を招集し、強いてこれを立たせ、
将軍に任命して楚を討たせ陳より以南、平輿に至るまでを取り楚王を捕虜にした。
秦王政は、広大な領土を得て遊び、郢(えい)、陳にまで至った。
その後、楚の将軍項燕は昌平君を立てて楚王として淮南で反旗を翻す。
紀元前223年、秦王、王翦と蒙武を派遣して項燕を討たせる、
楚軍は敗れて昌平君は戦死し、項燕は敗れて自殺した。
キングダムでは必ず異説を採用する鉄板仕様
賢明な読者の方は、これでキングダムが異説と通常の説と、
どちらを取るか分ったと思います。
そう、通常の説だと昌平君が出ないので通常の説は採用しません。
そして、まさに、ここで昌平君と蒙武をぶつける為に、
二人は幼馴染でよきライバルであったという伏線を張っているのです。
蒙武と昌平君の激突は涙モノのストーリーになる・・
昌平君は今でこそ、秦の右丞相ですが、紀元前227年には、
郢を通過して楚に帰還してしまい、項燕に担がれて楚王になります。
これは史実なので、脚色は出来るでしょうが曲げるのは不可能です。
紀元前223年に昌平君は戦死するのであり、それを討つのが、
蒙武であるという設定は避けえないでしょう。
そして、武力は蒙武、知力は李牧(りぼく)クラスと
介億(かいおく)に評される昌平君です。
むざむざと殺されはしない筈なので、この対楚戦争は、
キングダムの最期を飾る激しい激闘になるのです。
キングダムウォッチャーkawausoの独り言
え?楚の後には斉があるのに、何で最期を飾る勝負になるのかですか?
史実では斉は后勝(ごしょう)という佞臣により完全に骨抜きにされ、
降伏するのが得策と言われて、あっさりと武器を捨ててしまうからです。
まあ、逆に考えれば、これにより斉の人民は秦の蹂躙を免れたと思われるので、
斉人にとっては良い事なんですが、それによりキングダムの最期の
戦いは、対楚戦にずれ込む事になったのです。
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