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自称皇帝と言えば、三国志ファンは即、袁術(えんじゅつ)と答えますが、
それは、史実としては正しくはありません。
何故かと言えば、袁術が皇帝に即位する西暦197年の4年前に
すでに皇帝を自称していた人物が下邳(かひ)に存在していたからです。
その名を闕宣(けっせん)といい群雄、陶謙(とうけん)と同盟して
彼の人生を狂わせ、曹操(そうそう)の徐州大虐殺の原因を造りました。
今回は、小さいながらも三国志の舞台で暗躍した闕宣を紹介します。
列伝が存在しないので、よく分らない前半生
闕宣の前半生については、ほとんど不明で、その消息は三国志魏志、
陶謙(とうけん)伝と武帝(ぶてい)紀に僅かに登場しています。
まず、陶謙伝に記述されている一文を紹介しましょう。
下邳闕宣自稱天子 謙初與合從寇鈔 後遂殺宣 并其衆
これによると、闕宣は下邳において天子(皇帝)を自称し、陶謙は最初、
闕宣と合従(連合)して寇鈔(こうしゃ:掠奪する事)を為したが、
後にこれを殺してしまい、その兵力を吸収したとだけあります。
闕宣は下邳を支配した群雄だった
こうして、見ると闕宣は、経歴もあやふやな、正直大した事がない
小者に見えますが、実際にはそうではありません。
彼が本拠地にした下邳は、春秋戦国時代から楚漢戦争の時代において、
戦略上の要衝で、隣の彭城との関係で群雄の争奪戦の舞台になりました。
後漢の末にも荒れ始めて、後には呂布(りょふ)と劉備(りゅうび)が取り合いを
したように、ちょっとや、そっとの小者が維持できるような都市ではありません。
この下邳を支配した上で堂々と皇帝を名乗るというのですから、
闕宣は充分に軍勢を擁していて自信があり、それを見越して陶謙も
手を組んだと考えられるからです。
実際の闕宣とは、ポッと出てきたようなエキセントリックな小者では、
無かったのだろうと推測します。
陶謙を自滅させた闕宣の悪魔の囁き、泰山攻略
闕宣は、かなりカリスマ性のある人物であったようです。
それというのも、彼は合従した陶謙を唆(そそのか)し兗州の泰山郡を
掠奪するように言っているからです。
時代は、乱世です、強いモノが正義であり、ある意味強ければ取り放題
そういう世紀末の時代ですから、闕宣を悪だとは言えませんが、
あまりにも相手が悪すぎました。
その兗州の牧は曹操(そうそう)だったのです。
以下の文章は、三国志魏志、武帝紀にある闕宣の関連文です。
下邳闕宣聚衆數千人 自稱天子 徐州牧陶謙與共舉兵 取泰山 華 費 略任城
こちらには、下邳の人、闕宣、兵を数千人聚(あつ)めて、天子を自称した。
徐州牧、陶謙と與共(とも)に兵を挙げ泰山郡の華県と費県を攻略した
というように書かれています。
武帝紀の文章を見ると、言いだしっぺは闕宣のようです。
泰山郡は山がちの辺鄙(へんぴ)な土地で、さほど魅力が無いので
曹操はリスクを侵してまで逆襲はしないと闕宣は言ったのかも知れません。
陶謙、曹操の地雷を踏み、徐州は蹂躙される・・
闕宣の言い分を信じて泰山郡を蹂躙した陶謙ですが、曹操は激怒しました。
西暦193年、曹操は大挙して押し寄せ徐州の十余城を降します。
陶謙は迎撃しましたが、勝てずに敗走し、曹操は虐殺を続けて、
死者は万単位、泗水(しすい)は死体の為に流れが止まるという大惨事になりました。
曹操の悪行として語り伝えられる徐州大虐殺の始まりです。
肝心の陶謙は曹操の強さに怯え、郯(だん)城に籠って出て来なくなります。
曹操軍はやりたい放題を繰り返しますが、食糧が乏しくなったので、
兗州に引き上げていきました。
闕宣(けっせん)とはどんな人?勢力は小さくても強かった自称皇帝のイケイケ人生
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