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【華麗なる名門一族】袁紹のおじいちゃん達ってどのくらいすごい人だったの?

2017年2月17日


 

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袁術

 

後漢王朝のきっての名門一族である袁家。

後漢王朝が荒れて群雄達が挙兵すると袁紹と袁術の袁家一門も各地によって挙兵します。

名門袁家一門の袁紹と袁術の元には多くの名士達が集まってくるのですが、

後漢王朝の名家一門である袁家はどれくらいすごかったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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楚王劉英反乱事件がきっかけで名声を得る

袁家ヒストリー02 袁安

 

袁家の隆盛を作った人物である袁安(えんあん)

彼は三公の位である司徒(しと)のくらいにまで出世する人物なのですが、

どのような行いがきっかけで三公にまで登ることになったのでしょうか。

袁安は威厳のある人物で、学問をよく学んで知識を持っていた人物です。

そんな彼にある事件の裁判をするように命令が届きます。

その事件は劉英(りゅうえい)反逆事件です。

この事件は楚王で光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の三男である劉英が、

当時の皇帝である明帝に反乱を起こそうとした事が明るみに出た事件です。

袁安は劉英反逆に加担したと思われる人物である400人をすべて無罪であることを証明。

この結果彼の名声はこの裁判によって大きくなり、

名臣として当時の皇帝から賞賛を受けることになります。

そして章帝の時代に司徒の位へと上り詰めることになります。

 

袁家は袁安から三公へ登る人材を輩出する

袁礼 孫権

 

袁家は袁安のおかげで名門一族として君臨することになります。

袁安の息子で袁京(えんきょう)は蜀郡の太守となります。

そして彼の弟である袁敞(えんしょう)は司空(しくう)となり、

袁京の息子である袁湯(えんとう)は太尉(たいい)にまで出世することになります。

このように三公の位を排出する家柄として袁家一門は尊重されることになります。

また袁家一門は皆器の大き人ばかりだったそうで、

袁家一門の賓客となった人々は優秀であろうとなかろうと

皆それぞれのぞみを叶えてもらったそうです。

 

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袁紹のパパは外戚で権力者で会ったあの人物からも信頼を得ていた

宦官集合 

 

袁紹のパパである袁成は彼が誕生してからすぐに亡くなってしまいます。

しかし彼は気前がよくでハメを外すことがない人物で、

後漢王朝のお偉いさん達も彼と付き合っていたそうです。

そんな袁成と付き合っていた人物の中に後漢王朝の外戚(がいせき)で、

力を振るっていたあの人物もいたそうです。

その人物の名前は梁冀(りょうき)です。

彼は非常に力を持った人物で彼が権力を握っていたことから朝廷の人物のほとんどが、

彼に可愛がられていた人物でした。

しかしある事件がきっかけで皇帝から権力をもぎ取られ、

事件の責任を取って彼は亡くなってしまうのですが、

彼に連座した人数はなんと300人と言われており、

朝廷から人が居なくなったと言われる程の権力者だったそうです。

そんな彼も袁成と親しく付き合っており、彼の言うことはほとんど聞いていたそうです。

洛陽の人々は袁成の言うことがほとんどすべて通っていたことから

「この世で叶わないことがあれば、文開を訪ねよ」と言われていたそうです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

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後漢王朝の初期の時代から袁家は名門として君臨しており、

それから袁紹達が出現する時まで数百年間で名門としての袁家の地位は磐石な物になります。

これだけ三公の地位を輩出している家柄であれば、

名門袁家の名声は霊帝(れいてい)の時代には知らない人が居ない程天下に轟いており、

袁紹・袁術の元へ多くの人材が集まるのは自明の理と言えるのではないのでしょうか。

しかし袁紹・袁術の時代で袁家の名声は地に叩きつけられることになるとは、

あの世にいる彼のおじいちゃん達もせっかく築き上げてきた名声が無くなって、

びっくりしたのではないのでしょうか。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書1 今鷹真・井波律子著など

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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