始皇帝の死後天下は大いに乱れ、多くの群雄が出現してきます。
その中で他の群雄を抜いて勢力を拡大したのは、戦が下手な劉邦(りゅうほう)と
戦えばどんな劣勢でも跳ね返して勝ちを収めてきた項羽でした。
このふたりが天下の覇者の地位をかけて激闘を繰り広げていきます。
しかし項羽率いる楚軍は劉邦率いる漢軍を何回も打ち砕いて勝利を収めますが、
劉邦は不死鳥のごとく復活を果たします。
こうして長い戦いに終止符を打った決勝戦である広武山の戦いを今回はご紹介します。
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この記事の目次
秦の食料地帯を確保
劉邦率いる漢軍は成皋(せいこう)の北にある広武山を占領して防御工事を施し、
項羽軍を待ち受けます。
劉邦がこの地を占領したのはここに秦の時代から食料の集積地帯だったからです。
その為この地にいれば食料に困ることはなく、また楚軍が来るであろう反対側と
この広武山には断崖絶壁の溝「鴻溝」があったため容易に攻めることができない
地形で対陣するにはもってこいの場所でした。
ここに陣取った劉邦は項羽軍が来襲してくるのを待ちます。
劉邦の息の根を止める為に広武山の迎えに陣取る
項羽は後方攪乱していた彭越(ほうえつ)軍を蹴散らすと劉邦軍が広武山に陣取っているとの
報告を受けます。
すると彼は楚軍を率いて劉邦がいる広武山の麓を包囲して、
漢軍が山を降りられないようにすると楚軍を漢軍の反対側に陣取らせて漢軍と対峙。
こうして楚と漢の最終決戦の幕は切って落とされることになります。
飢える楚軍とじっと待つ漢軍
楚軍は食料が不足しており、
決着が一日伸びればその分だけ楚軍は飢えていく状況に陥っておりました。
その原因を作っているのは楚の補給路切断している彭越軍の存在です。
彼は項羽に蹴散らされると再び軍勢を集結させて楚軍の補給路を切断。
その結果項羽軍は本拠地である彭城(ほうじょう)からの食料補給が届かず、
軍勢は飢えていくことになります。
反対に漢軍は秦の食料貯蔵地帯である成皋を占拠していたので、
飢える心配は全くなく飽食状態でした。
項羽はこのままでは漢軍と戦わずに敗北してしまうと感じある作戦に出ます。
劉邦の父をまな板の上に乗せて脅迫するも・・・・
項羽は挑発しても戦いに出てこない漢軍を誘い出すために、
劉邦の父を素っ裸にして大きいまな板に乗せます。
そして大声で「戦いに応じないならお前の父はここで死ぬ事になるぞ」と脅迫。
しかし劉邦は「殺すなら殺せ。しかし昔懐王(かいおう)の面前でお前と義兄弟になったはずだから、
俺の父親を殺害することはお前の父を殺害することにもつながるのだぞ。」と彼を責めます。
この言葉を聞いた項羽は歯ぎしりして悔しがりながら劉邦の父を殺害することを諦めることにします。
劉邦の反撃
劉邦は項羽と戦を行っても彼との戦でまともに勝利した覚えがないので、
彼を責め立てる作戦に出ます。
劉邦は本営を出て、項羽の陣営に大声で「項羽よ貴様には10個の罪がある。
一つ目は懐王が定めた関中へ一番乗りを果たした諸侯が関中王になれる約束を破った事。
二つ目、上将軍であった宋義を殺害したこと。三つ目降伏した秦王子嬰(しえい)を殺害した・・・・。」
などの罪状を読み上げていきます。
項羽はこ劉邦の罪状を聴き終わる前に弓矢を彼に射ます。
劉邦は項羽が射た弓矢を受けてしまいその場に倒れ込んでしまいます。
しかし項羽が射た弓矢は劉邦の胸に直撃したのではなく彼の足に直撃し、
かろうじて命を喪わずに済みます。
長い対峙も終りを告げる
項羽と劉邦は広武山で長い時間対峙しておりました。
しかし劉邦の負傷によって、劉邦側から講和しようぜと項羽に持ちかけます。
この時劉邦軍の論客となっていた侯公(こうこう)の活躍によって、項羽は劉邦との講和を結び
両軍は山を去っていくことになります。
楚漢戦争ライター黒田レンの独り言
広武山の戦いは集結し、両軍は講和条件に従って下山することになります。
だが、劉邦軍の軍師である陳平と張良は劉邦に講和を破って項羽軍に攻めかけなければ、
今後楚軍に勝てる可能性は限りなくゼロになると進言。
この進言を受け入れて劉邦は講和を破って全軍に楚軍追撃を命じます。
そして垓下城の戦いへとつながっていくのです。
この広武山の戦いは講和となって両者引き分けでしたが、楚軍を大いに弱らせることに成功。
この戦いがあったからこそ項羽を滅ぼすことができたのではないのでしょうか。
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