ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志にズームイン」のコーナーです。
ここまで2回に渡り曹操VS孫権の10年間に及ぶ戦い「合肥の戦い」についてお伝えしています。
始まりは西暦208年の「赤壁の戦い」があった直後のことです。
西暦212年の濡須口の戦いまで話を進めたので、今回はその続きになります。
西暦214年の戦い
しばらく曹操は孫権への積極的な軍事行動を控えます。
関中の馬超を破った曹操は濡須口の戦いの翌年・西暦213年に
荀彧の反対を押し切り「魏公」となっています。
果たして曹操には漢王朝を滅ぼす算段があったのかどうか。
やがて西暦216年には「魏王」となり、あくまでも漢帝国内ですが曹操の王国を建国します。
それはまたいずれお話するとして、魏公になった曹操の領地に孫権が攻め込みます。
西暦214年のことです。
この年5月、孫権は濡須口より上流50㎞ほどの場所にある皖城を、
呂蒙を総大将に立てて攻めさせ、落城させます。
盧江太守の朱光は甘寧に捕らえられ、参謀の董和(蜀の董和とは別人)、
さらに数万人の捕虜を手に入れたとあります。
孫権の大勝ですね。
荊州方面のてこ入れ
実はこの西暦214年は益州の劉璋が劉備に降伏した年でもあります。
劉備は益州を手に入れたのです。
事前の約束では借りていた荊州を孫権に返すことになっていましたが、劉備はその約束を反故します。
怒った孫権は皖城攻めの後の呂蒙に二万の兵を授けて荊州南郡三郡を占領させます。
魯粛は巴丘に駐屯させ関羽を防がせ、孫権自身も陸口まで出陣し、全軍の指揮にあたりました。
関羽は総攻撃を仕掛けてこようとしましたが、
ちょうどこのタイミングで曹操が劉備の領土に接する漢中に侵攻したのです。
孫権と劉備は和議を結び、荊州を改めて分割します。(第二次荊州分割)
劉備は兵を取って返し、漢中方面に向います。孫権も陸口を後にして合肥へ出陣します。
曹操が西の漢中にいるのは千載一遇のチャンスと考えたからです。
西暦215年の戦いへ
劉備と孫権の和議が結ばれたのが、この年の5月です。
孫権は8月には合肥へ侵攻しています。その兵力は10万です。
合肥を守るのは張遼・楽進・李典の名将3名です。さらにその目付として護軍の薛悌がいました。
曹操は自分が漢中へ出兵すると孫権が合肥に進出してくることを読んでいたのです。
孫権が出兵するとすぐに曹操も漢中から主力の兵を引きます。
(結局この年に漢中の張魯は曹操に降伏しますが)
対孫権用の命令も木箱に入れて薛悌に渡してありました。
広く知られていることですが、張遼と楽進・李典は反目し合っていました。
仲が極めて良くなかったのです。
突然の孫権軍の侵攻に対して彼らがバラバラになって対抗しようとする危険性もあったわけです。
曹操はそこまで考えて薛悌を置いておきました。
木箱に入った命令書には「張遼と李典は協力し敵を迎撃すること。
楽進は薛悌と共に城を守り抜くこと」と記されていました。
李典は楽進に比べると物腰も柔らかく柔軟に対応できる器用さを持っています。
張遼のことは拒絶していましたが、
楽進に比べると李典の方が張遼と上手くやっていける可能性がありました。
楽進は城を守る役に不満を漏らしますが、李典がなだめて納得させます。
どちらかというと楽進は一番槍を競うような猪突猛進型の武将です。
本人が腑に落ちないのも無理はありません。
しかし猛将張遼の武勇に期待していた曹操は楽進に籠城を命じたのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
いよいよ張遼の活躍の場面になりましたが、今回はここまでです。
次回は張遼や甘寧の伝説的な武勇がさく裂します。
まんまと誘導されてつり出された孫権の命運はどうなるのでしょうか。
次回を期待してお待ちください。
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