ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志ごっつええ感じ」のコーナーです。
これまで3回にわたりお伝えしてきた曹操と孫権の10年に及ぶ紛争
「合肥の戦い」ですが、いよいよ張遼の活躍の場面となりました。
このシーンは三国志ファンには強烈なインパクトを残していると思います。
呂布の配下だった張遼ってこんなに強いんだって驚きました。
さて今回はそんな伝説的なシーンをお伝えしていきます。
張遼出陣
西暦215年8月。10万の軍勢で押し寄せる孫権軍に対し、
合肥城には張遼、李典、楽進、薛悌と、肝心の曹操の姿がありません。
兵力もわずかに7千です。
曹操が事前に与えていた作戦の通りに、張遼と李典は城を出て孫権軍を迎撃します。
数を考えると完全に籠城なのですが、張遼は、
曹操がまず敵の出鼻をくじけという命令をくだしていると判断します。
孫権の陣が固まらぬうちに迎撃する奇襲攻撃を決断するのです。
そして決死隊を募ります。その数は800でした。
李典は張遼が呂布の配下だったころに身内を殺されている恨みがありましたが、
「国家の危機にあって私怨は忘れる」と共に出陣します。
張遼は自らが先頭に立って孫権軍に向うのです。
真田幸村の突撃って!?
張遼は一気に孫権の軍勢に突撃を仕掛けます。
その猛攻に討ち取られるもの多数。
孫権のお気に入りの武将だった陳武もこのとき張遼に討たれています。
将軍の牙旗を持つ徐盛も負傷し、大事な旗を奪われました。
これに気が付いた孫権軍の賀斉が徐盛を救出し、旗を取り返します。
張遼は孫権の姿を知りませんでした。手当たり次第に斬り捨てます。
一時避難していた孫権は張遼の兵が800しかいないことに気が付き包囲させました。
張遼は巧みに囲みを突破しましたが、ほとんどの兵が囲いを突破できません。
張遼に助けを求めます。
半日戦い続けていた張遼も疲労困憊でしたが、再度突撃し、部下たちの囲みを破り、救い出すのです。
その鬼のような強さに孫権軍は意気消沈したといいます。
まさに大阪夏の陣で徳川家康めがけて突撃した真田幸村を思い出させる張遼の奮闘です。
(時代を考えると真田幸村が張遼を真似たのでしょうが)
張遼は揚々と合肥城に帰城しました。
合肥包囲網
著しく戦意が低下した孫権軍でしたが多勢に無勢、数をたのんで合肥の城を包囲します。
しかし緒戦で大きく勝利していた曹操軍の士気は高いものがありました。
城は落ちません。さらに孫権の陣営に疫病がまん延し始めます。
孫権は悔しがりながらも撤退を決断します。
10万の軍勢を退かせることにしたのです。
戦争は撤退が一番難しいといわれています。敵の追撃が厳しくなるからです。
このときの殿(しんがり)は凌統が務めました。
そしてなぜか孫権は兵の大部分を退かせた後もまだ後方で指示を出しています。
逍遥津の渡し場で孫権軍はふたつに分かれます。
ほとんどが橋を渡って南へ撤退していたのですが、
孫権や凌統を含む約千人がまだ橋の北に残っていました。
逍遥津の追撃
このチャンスを待っていた張遼は猛烈な追撃を開始します。
孫権ら千人は渡し場を目前にして張遼の兵に包囲されるのです。
凌統が奮戦し、孫権を守りながら包囲を突破しましたが、肝心の渡し場の橋が焼かれていました。
しかし焼け落ちたのはまだ橋の一部です。飛び移れば間に合う可能性があります。
後背からは張遼が迫ってきます。それを防ごうと凌統の配下は皆、討ち死にします。
孫権は意を決して馬で飛び移り、この危機を脱するのです。
張遼はあれが孫権だと知っていたら必ず討ち取っていたと、後で後悔しました。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
10万の兵を率いながら、わずかな兵しかいない張遼にいい様にかき回される孫権。
張遼の猛将ぶりばかりがクローズアップされていますね。
呉ではこれ以降、泣く子がいても「遼来遼来」といったら泣き止んだそうです。
しかし呉にだって張遼に匹敵する猛将がいます。
次回を期待してお待ちください。
関連記事:合肥(がっぴ)むかつく!孫権が合肥攻略にこだわる理由とは?
関連記事:孫権は何であれほど合肥城を狙い続けたの?理由をわかりやすく解説(前半)
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—