ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志にズームイン!」のコーナーです。
曹操VS孫権の10年に及ぶ戦い「合肥の戦い」についてお話をしてきましたが、
今回が最終回となります。
西暦215年8月、孫権は10万の兵で合肥を攻めましたが、
張遼の奮戦に防がれ、命からがら撤退します。
今回はそこからの続きになります。
呉にも「●●がいる!」と孫権が喜んだシーンが印象的です。
それでは。
前回記事:2分で分かる合肥の戦い その2 孫権の度胸の良さとは!?
前回記事:2分で分かる合肥の戦い その3 曹操の秘策と張遼・李典・楽進
西暦216年
この年は曹操と孫権の軍事衝突はありません。
曹操は魏公からついに「魏王」となりました。
しかしその後、曹操は帝になることはなく、あくまでも丞相という官位のままこの世を去ります。
果たして曹操の真意がどこにあったのか、それはまた別の機会にお話をするとして、
王となった曹操は再び孫権討伐の兵をあげるのです。
今回は合肥の張遼・李典・楽進などの他に重臣・夏候惇や曹仁なども征討に参加しています。
11月には譙に到着、さらに南下し、合肥より南50㎞にある居巣に本陣を張りました。
西暦217年1月
曹操は居巣より張遼・臧覇(ぞうは)を出撃させ、濡須口を攻めます。
孫権軍は呂蒙が司令官となり迎撃、約1万の弩を並べて曹操軍の先鋒を撃退します。
曹操の本陣は大雨で水位が上がり後退しましたが、
臧覇は崩れながらも退かずに決死の覚悟で持ちこたえます。
そして翌日に本陣と合流しています。
ここで奇襲作戦に名乗り出たのが孫権の配下の甘寧です。
甘寧は前部督の将軍でした。わずか100人の兵と共に夜襲をかけることを提案します。
孫権は酒と米与えて鼓舞したといいますし、
甘寧はこの100人の兵に対し直々に酒を振る舞ったとされています。
張遼は800の兵で孫権軍10万を翻弄しましたが、
甘寧はそれよりも少ない100人で曹操軍を攻めたのです。
わしには甘寧がいる!
甘寧は武勇に優れていましたが、かつて賊徒の頭領をしていたような男です。
人を殺すことにためらいがなく、呂蒙も甘寧のことを嫌っていました。
しかし、甘寧は武勇だけでなく知略にも優れていたといいます。
甘寧はわずか100人の兵を連れて曹操軍に夜襲をかけ、見事に敵陣を混乱させ、生還しています。
それを見て孫権は「曹操には張遼がいるが、わしには甘寧がいる」と喜んだそうです。
呂蒙はこの戦の功績によって左護軍・虎威将軍を拝することとなり、甘寧は2千の兵を加増されます。
曹操軍の陣営では疫病が逸り、司馬朗が病没しました。
曹操は総司令官に夏候惇を任じ、居巣に曹仁や張遼を残して引き上げました。
こうして合肥を巡る戦いは幕を閉じるのです。
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合肥新城
曹操が亡くなった後も西暦222年にかけて孫権と曹操の息子の曹丕が衝突します。
西暦230年には孫権の水軍を警戒してもともとあった合肥城の北西に合肥新城を築きました。
合肥を巡る魏と呉の戦いはまだまだ続くのです。
しかし、曹操VS孫権の死闘は引き分けという形で終わっています。
そして孫権は西暦217年3月に曹操に降りました。意表を突いた決断です。
いくらやっても曹操との決着はつかないと孫権は考え、戦略を根本から練り直したのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
孫権は曹操に臣下の礼をとり、一時休戦状態にします。
そして西の荊州に目を向けたのです。そこは劉備の領地であり、関羽が司令官として守っていました。
まずは荊州統一を目指すことに方向転換し、孫権と呂蒙は動き始めることになります。
もし合肥の戦いで孫権が勝って揚州を占領していたら、
荊州攻めはなかったかもしれませんし、関羽が命を落とすこともなかったかもしれません。
どちらにせよ曹操の精鋭と対等に渡り合った孫権もまた戦上手といえるのではないでしょうか。
みなさんはどうお考えですか。
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