呉と倭は外交交渉をしていたの?日本を目指した衛温と諸葛直

2017年4月16日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・謎の島を探せ」のコーナーです。

 

 

西暦230年といえば、三国志では魏で合肥新城が築城され、

魏と呉の争いはさらに熾烈なものになる予感が漂っていた頃です。

この年に孫権はまったく別の政策も指示しています。

それが海の向こうの国を探索し、奴隷をたくさん連れて戻ってくるというものでした。

それだけ呉も人口問題の解決が急務だったということですね。

なんだか植民地時代のスペインやポルトガルのような政策ですが、はたして成功したのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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指名されたのは二人

 

この政策の実行ための責任者に選ばれたのは二人です。

一人は衛温、もう一人は諸葛直です。

諸葛という姓ですが、諸葛瑾や諸葛恪との関係は不明です。

どちらも文官ではなく将軍でした。

つまり軍事的な強硬外交を孫権は決断したのです。簡単に言うと侵略ですね。

孫権が目指した土地は、「夷州と亶州」です。

聞いたことのない州名です。呉がある揚州の北には徐州、西には荊州、南には交州があります。

そこではありませんね。そもそも中華の領土ではありません。

そこは海の向こうにありました。

一万の兵を率いて二人の将軍は出港します。

ただし夷州と亶州がどこにあるのか、正しい位置はよくわからなかったといわれています。

つまりどのくらいの期間がかかるのかも予想できないのです。

まるで幻の島「ラフテル」を目指すワンピースのルフィたちのような冒険に満ちた旅ですね。

 

この二州ってどこ?

 

実際はこの夷州と亶州がどこを指しているのか、未だに判明されていません。

呉の陸遜と全琮は無謀であるとして反対していますが、孫権は強行しました。

これは民主主義の国家と異なる点ですね。

議会の承認とかいらないのです。

これがいいと決めたらすぐに実行に移せるところが長所です。

ただしそれを止めることができないところが短所です。

で、二州についてですが、有力な説では夷州は台湾ではないかといわれています。

呉の領土から考えると朝鮮半島に行くよりはるかに近いです。

 

 

では亶州はどこなのでしょうか。かつて秦の時代に、

始皇帝のために不老不死の薬を探し求めて航海した徐福が住み着いた場所といわれています。

かなり神秘的な場所ですね。

この亶州が「日本の種子島」「日本の琉球諸島」「フィリピン」のどれかといわれています。

こちらは台湾までの距離の倍以上になります。

はたして亶州はどこだったのでしょうか。

 

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孫権に処刑される二人

 

その後、衛温と諸葛直の二人が呉に帰国したのはおよそ1年後になります。

ものすごいスリルに満ちた冒険だったことでしょう。

兵のほとんどを疫病で失ったと記録されています。

しかも亶州にはたどり着けず、成果は夷州から連行してきた地元民数千人でした。

計算上では失った数の方が多いですね。

そのためにかかった莫大な費用も無駄に終わっています。

孫権は責任をとらせて二人を処刑します。

 

孫権は亶州を倭と考えていたのか

 

孫権はどうもこの亶州との交流を切望していたようです。

もしかすると孫権はこの亶州を倭だと考えていたかもしれません。

真実はわかりませんが、どうだったのでしょうか。

 

 

悲しいかな、数年後の西暦238年の倭・邪馬台国の女・卑弥呼の使者が中華に訪れ、魏と結びます。

呉から倭ではやはり距離がありすぎますね。

当時の航海術では呉と倭が外交するのは難しかったといわれています。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

遭難して偶然にたどり着くことはあったそうです。

正式な交流は記録にありません。

しかし邪馬台国最大の謎といわれる300枚以上出土した「三角縁神獣鏡」。

これは倭と呉がどうにかして交流していたという証なのかもしれません。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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