広告

【衝撃の事実】董允がいたからこそ蜀は滅亡から逃れた!

2017年4月19日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

諸葛孔明は北伐を敢行する際、

自らの決意を述べた「出師の表(すいしのひょう)」なる物を作成。

この文章は後世これを読んで涙を流さない物は臣下にあらずと言われる程の名文でした。

この名文に蜀の四人の臣下が登場するのをご存知ですか。

 

一人は孔明の跡を引き継いで蜀を引っ張っていったリーダー費禕(ひい)。

二人目は穏やかな性格をしていた郭攸之(かくゆうし)。

三人目は軍事の能力に秀でた才能を持っていると言われた向寵(しょうちょう)。

そして最後の一人が董允(とういん)です。

しかしなぜ彼が蜀の滅亡を防いだ人物と言えるのか

ご存知な方はあまりいないのではないのでしょうか。

今回は彼がどのような活躍をしていたのかをご紹介するとともに

なぜ彼がいたから蜀は滅亡しないで済んだのかもご紹介していきたいと思います。

 

関連記事:董允(とういん)ってどんな人?蜀の黄門様、劉禅の甘えを許さず!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



孔明から宮中を取り仕切ることのできる人物として推挙される

 

董允は諸葛孔明に熟考型の人物として評価された董和の息子です。

彼は劉禅が皇帝の位についた時黄門侍郎の位に就任することになります。

孔明は劉禅が年若くまだ物事の判断がしっかりとできないことを憂いて、

魏を討伐する戦に出陣する前にある決断を行います。

それは董允に宮中の事を取り締まる事を任せることです。

董允に宮中を取り締まらせようとさせたきっかけは、

彼の人柄が公正明大を尊ぶ人物であると感じたためです。

孔明は北伐に赴く際に劉禅へ「侍中の郭攸之、董允、費禕は、

先帝が残してくれた優れた臣下達です。

彼らに宮中の大小の事柄に関わらず相談なされるのがいいでしょう。

必ず彼らは陛下のためになるように言葉を尽くしてくれるでしょう。

しかし彼らが陛下のためになるような言葉述べなければすぐに処断なされますよう」と

上奏を行います。

劉禅は孔明の進言を採用して彼ら三人に宮中を取り仕切ることにさせます。

費禕はその後孔明と一緒に北伐戦に参加することになり、

郭攸之は人柄がいいだけで劉禅にあまり進言を行わなかったことから

董允一人で宮中を取り仕切ることになります。

 

美女を宮中に増やすことは許さない

 

ある日董允は劉禅から「後宮の美女を増やしたいんだけどいい」と相談されます。

すると彼は劉禅に「陛下。後宮の美女は12人と古来から決まっており、

現在後宮の美女は12人おりますからこれ以上増やしてはいけません」と彼の相談を

しっかりと跳ね除けます。

そのため劉禅はがっくりしてしまいますが、

彼を追放するようなことをせずにしっかりと彼の意見を聞いて成長していったそうです。

 

黄皓の台頭を押さえつける

 

劉禅は成長すると宦官である黄皓(こうこう)を気に入って彼を側に侍らせます。

黄皓は劉禅におべんちゃらを述べて気に入られようと言葉を尽くします。

しかし董允は劉禅が黄皓の言葉に気をよくするとすぐに注意を行い、

黄皓に対しても厳しく接していき、彼が劉禅に近づけないようにします。

そのため董允が存命中は黄皓も好き放題行うことができず、

官位を上げてもらうこともできなかったようです。

董允がいるあいだは蜀の宮廷は暴走することなく、

しっかりとしていたため滅びに向かうことはありませんでした。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

董允が奥向きのことを取り仕切っていたため、

劉禅も好き放題することができずに彼の意見に従っており、

黄皓も董允がいたため劉禅に媚びへつらうことができずに官位も低いままでした。

そのため彼がいた事によって蜀は滅亡しないでいたといいのではないのでしょうか。

その理由は彼が亡くなった後、

黄皓は劉禅に取り入って一気に出世して蜀の政権を牛耳っており、

劉禅も董允と言う枷が亡くなったことによって政治に関心をなくして、

遊び放題していたからです。

また蜀の人々は諸葛孔明・費禕・蒋琬(しょうえん)・董允の四人を四相と呼んで、

敬意を評していたそうです。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など

 

 

関連記事:関連記事:蜀(国家)が滅亡したら蜀の民や国に尽した人はどうなるの?

関連記事:世界不思議発見!三国志の時代の日本、西洋、インドの秘密を探る

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-はじめての蜀
-,